漢陽製鉄所 (かんようせいてつじょ)
1890年設立
【概説】
清末の1890年に湖広総督・張之洞によって建設された、中国最初期の近代的一貫製鉄所。のちに大冶鉄山や萍郷炭鉱と合併して「漢冶萍公司」の中核となり、日本の官営八幡製鉄所に対する主要な鉄鉱石・鉄鋼の供給源となった。
八幡製鉄所の稼働を支えた原料供給地
1901年に操業を開始した日本の官営八幡製鉄所は、国内での鉄鉱石調達が困難であったため、その大半を清国の漢冶萍(かんやひょう)公司(漢陽製鉄所を擁する鉱山・製鉄複合企業)に依存していた。日本政府や民間企業は、横浜正金銀行などを通じて同公司に巨額の借款(融資)を重ねることで、大冶鉄山から産出される良質な鉄鉱石を安価かつ優先的に輸入するルートを確保した。このように、漢陽製鉄所をめぐる資源供給体制は、日本の初期重工業化と軍備拡張を陰から支える基盤であった。
対華二十一カ条要求と日中合弁化問題
大正時代に入ると、漢陽製鉄所は政治的な対立の焦点となった。第一次世界大戦中の1915年、大隈重信内閣が中華民国の袁世凱政権に突きつけた対華二十一カ条要求の第3号において、日本は漢冶萍公司の日中合弁化を要求した。これは、同公司に対する日本の支配権を確定させ、他国へ売却されることを防ぐことで、軍需に不可欠な製鉄資源を独占的に掌握しようとする試みであった。しかし、この要求は中国の主権を著しく侵害するものとして、現地における激しい排日愛国運動を誘発することとなった。