大日本雄弁会講談社(講談社)

野間清治が設立し、『キング』などの大衆娯楽雑誌を相次いで創刊して日本の出版文化を大きく発展させた出版社は何か?
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重要度
★★

大日本雄弁会講談社(講談社) (だいにほんゆうべんかいこうだんしゃ)

1909年設立

【概説】
明治末期に野間清治によって創設され、大正から昭和初期にかけて急成長を遂げた日本を代表する出版社。雑誌『キング』や『少年倶楽部』など、庶民の知的好奇心と娯楽欲求に応える大衆雑誌を次々とヒットさせた。活字文化の普及と大衆化を推し進め、近代日本におけるマスメディアの確立に決定的な役割を果たした。

野間清治の起業と「面白くてためになる」精神

大日本雄弁会講談社の歴史は、1909(明治42)年に野間清治が「大日本雄弁会」を設立し、雑誌『雄弁』を創刊したことに始まる。当時、東京帝国大学法学部の首席書記官であった野間は、これからの時代は弁論(雄弁)の力が社会を動かすと確信し、青年向けの弁論啓蒙誌を発行した。これが大きな成功を収めると、1911年には「講談社」を設立し、伝統的な寄席の講談を速記・再構成した『講談倶楽部』を創刊して庶民の娯楽欲求を捉えた。1925(大正14)年にこの2つの組織が合併し、正式に「大日本雄弁会講談社」となった。

野間が貫いた出版理念は「面白くてためになる」というものであった。これは、それまでの知識人向けのエリート主義的な学術書や文芸誌とは一線を画し、一般庶民や青少年が娯楽として楽しみながら、同時に社会規範や道徳、実用的な知識を身につけられる内容を目指したものであった。この明快な方針が、のちの爆発的な出版ビジネスの成功へとつながっていく。

『キング』の爆発的ヒットと大衆文化の形成

大日本雄弁会講談社の地位を不動のものとしたのが、1925年に創刊された国民的雑誌『キング』である。「日本一の雑誌」を目指して日本初の広範な新聞広告やポスターによる大々的な宣伝キャンペーンを展開した『キング』は、創刊号だけで74万部、最盛期には100万部を超える大ヒットを記録し、日本の出版史上初のミリオンセラーとなった。同誌は、ユーモア小説、講談、偉人伝、家庭実用記事などを満載し、家族全員で読める総合娯楽誌として全国に普及した。

また、同社は『キング』のほかにも、子ども向けの『少年倶楽部』や『少女倶楽部』、主婦層向けの『婦人倶楽部』など、ターゲットを細分化した「倶楽部」雑誌を次々と創刊した。これらの雑誌は、挿絵画家の高畠華宵や樺島勝一、作家の吉川英治らを起用し、日本の近代大衆文学や児童文化、漫画文化の発展を大きく牽引することとなった。

出版ビジネスの近代化と国民意識の均質化

講談社の成功は、単なる編集企画の妙に留まらず、流通や宣伝といった出版ビジネスにおける近代的なシステムの確立によるものであった。野間は、売れ残った雑誌の返品を認める「委託販売制」や、地方の書店網(取次ルート)の整備を進め、日本全国の読者へ同時に、安価に本を届ける大量生産・大量配給の仕組みを作り上げた。これにより、それまで都市部に偏りがちだった最新の情報や流行が、地方の農山漁村にも同時に行き渡るようになった。

この大衆雑誌の爆発的な普及は、大正デモクラシー期から昭和初期における大衆消費社会の到来と深く連動していた。全国の人々が同じ雑誌を読み、同じ物語に熱中することで、地域差を超えた共通の「国民意識」や均質化された近代的なライフスタイルが形成されていった。その一方で、昭和期に戦時体制が強まると、その強大なメディア影響力は国策プロパガンダの浸透にも利用されることとなり、メディアと国家、大衆の関係を考える上でも極めて重要な歴史的役割を担うこととなった。

奇蹟の出版王: 野間清治とヘンリー・ルース

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日露近代史 戦争と平和の百年 (講談社現代新書)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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