コミンテルン
【概説】
ロシア革命後の1919年にモスクワで創設された、世界革命を目指す国際的な共産主義指導組織(第3インターナショナル)。各国の共産党を自らの「支部」として強力に統制・指導した。日本においては、日本共産党の結成や運動方針を決定づけたほか、政府による治安維持法の制定や防共外交を誘発するなど、近代日本の政治・社会・思想に甚大な影響を及ぼした。
日本共産党の結成と「テーゼ」による思想的規定
コミンテルンはアジアにおける革命運動を重視し、日本における共産主義政党の組織化を促した。その指導のもと、1922(大正11)年に日本共産党(第一次共産党)が非合法のうちに結成され、コミンテルン日本支部として位置づけられた。コミンテルンは日本支部に対し、運動方針を示す「テーゼ(綱領的文書)」を断続的に下した。
とりわけ、1932(昭和7)年に発せられた「1932年テーゼ」は、当時の日本社会を「絶対主義的天皇制」を根幹とする軍国主義・地主・独占資本の結合体と分析した。これにより、まずは天皇制を打倒するブルジョア民主主義革命を達成し、直ちに社会主義革命へと移行する「二段階革命論」が提示された。この方針は、日本の社会主義・共産主義運動の指針となっただけでなく、戦前のマルクス主義学者たちの間で展開された「日本資本主義論争(講座派対労農派)」に火をつけ、歴史学や経済学などの学術界にも決定的な影響を及ぼした。
国家による「赤化」弾圧と治安維持法への道
大正デモクラシー期から昭和初期にかけて、日本政府および知識人層は、コミンテルンによる「赤化(共産主義化)」の脅威を極度に警戒した。1925(大正14)年に制定された治安維持法は、国体(天皇制)の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社を取り締まるためのものであったが、これは事実上、コミンテルンの影響下にある日本共産党の壊滅を狙ったものであった。
その後、1928(昭和3)年の三・一五事件や翌年の四・一六事件といった大規模な検挙により、共産党の組織は壊滅的な打撃を受けた。政府は治安維持法を改正して最高刑に死刑を導入し、さらに特高警察(特別高等警察)を全国に配備するなど、思想統制と弾圧の体制を急速に強化していった。このように、コミンテルンという外部の脅威は、日本国内における全体主義的・国家主義的な体制構築を正当化する強力な大義名分として機能することとなった。
昭和期の「防共」外交とコミンテルンの終焉
1930年代に入ると、コミンテルンの存在は日本の外交政策をも大きく規定するようになった。軍部や革新官僚は、ソビエト連邦(およびその背後にあるコミンテルン)を国防上の最大の脅威と位置づけ、大陸進出を進めた。1936(昭和11)年には、ナチス・ドイツとの間でコミンテルンへの対抗を掲げた日独防共協定を締結し、これが後の日独伊三国同盟へと発展する契機となった。
しかし、第二次世界大戦が激化する中の1943年、ソ連の指導者スターリンは、共同で枢軸国と戦うアメリカやイギリスなど資本主義の連合国側との同盟関係を円滑にするため、コミンテルンの解散を決定した。世界革命の司令塔としての役割を終えたコミンテルンは消滅したが、その影響力は戦後の日本社会党や日本共産党の再建、ひいては戦後日本の革新運動の思想的源流として深く刻まれ続けることとなった。