ソヴィエト政権
【概説】
労働者や農民、兵士の代表議会(ソヴィエト)を権力基盤として、1917年の十月革命によりロシアに成立した世界初の社会主義政権。その反資本主義的なイデオロギーは世界の列強に衝撃を与え、日本においてもシベリア出兵や米騒動の契機となったほか、国内の社会主義運動の急進化とそれに対する治安維持法の制定など、大正・昭和期の政治社会に甚大な影響を及ぼした。
十月革命による世界初の社会主義政権の樹立
1917年、第一次世界大戦の長期化による疲弊を背景にロシア革命が勃発した。二月革命によって帝政が崩壊した後、同年11月(ロシア暦10月)にウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキが武装蜂起を行い、臨時政府を打倒した(十月革命)。これにより、労働者・農民・兵士の代表からなる評議会「ソヴィエト」に全権を集中させる世界初の社会主義政権が誕生した。この新政権は、交戦国に対する無併合・無償金・民族自決を原則とする講和(平和に関する布告)や、私有財産制を否定する土地の国有化(土地に関する布告)などを宣言し、従来の資本主義体制を中心とする国際社会に多大な衝撃を与えた。
日本の対干渉戦争「シベリア出兵」と米騒動
ソヴィエト政権が単独でドイツと講和(ブレスト=リトフスク条約)を結び大戦から離脱すると、連合国側は東部戦線の崩壊と社会主義革命の波及を恐れ、反革命軍を支援する武力干渉を開始した。日本(寺内正毅内閣)も1918年、チェコスロバキア軍団の救出を大義名分として大軍を派遣した(シベリア出兵)。
この出兵を見越した米穀商や地主が米の買い占め・売り惜しみを行った結果、国内では深刻な米価暴騰を招き、富山県の漁村の主婦らによる運動を皮切りに全国規模の暴動である米騒動が勃発した。これにより寺内内閣は総辞職に追い込まれ、本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生することとなった。ソヴィエト政権の誕生は、間接的ながら日本の大正デモクラシー期の政治体制に劇的な変化をもたらしたのである。
国内社会主義運動の急進化と日本共産党の結成
ソヴィエト政権の成立と成功のニュースは、大正デモクラシーの自由な風潮の中で、日本の知識人や労働者にも強い思想的影響を与えた。1919年にレーニンらの主導で国際共産主義運動の指導組織「コミンテルン(第3インターナショナル)」がモスクワで創設されると、日本へも積極的な働きかけが行われた。その結果、1922年にはコミンテルンの日本支部として日本共産党(第一次)が非合法のうちに結成され、無産政党の組織化や労働運動の急進化に拍車がかかることとなった。
日ソ国交樹立と治安維持法体制の構築
1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立し、国際社会で徐々に承認されるようになると、日本も極東における安全保障と経済的権益の確保のために接近を試みた。1925年、加藤高明内閣は日ソ基本条約を締結してソ連を正式に承認し、国交を樹立した。
しかし、日本政府は国交正常化と引き換えに、ソ連からの共産主義思想の流入や、天皇制(国体)および私有財産制を否定する運動が国内で激化することを極度に恐れていた。そのため、日ソ基本条約締結とほぼ同時期に治安維持法を制定し、社会主義・共産主義運動に対する徹底的な弾圧体制を敷いた。以降、ソヴィエト政権は「最大の仮想敵国」として、また「国内の思想的脅威の震源地」として、戦前・戦中を通じた日本の外交・軍事・内政のあらゆる政策決定において、強く意識され続ける存在となった。