安藤昌益 (あんどうしょうえき)
【概説】
江戸時代中期の出羽国および陸奥国八戸で活動した医師、思想家。封建的な身分制度や支配階級を厳しく批判し、すべての人が自ら農耕を行う平等の社会を理想とした。そのあまりに先駆的で急進的な思想は、江戸時代の体制下では受け入れられず、近代になってから「再発見」された独自の思想家である。
「万人直耕」と「自然世」の理想
安藤昌益の思想の核心は、人間はすべて自ら田畑を耕して食を得るべきであるという「万人直耕(ばんにんちょっこう)」の原則にある。昌益は、自ら労働して生産を行う人々を「直耕人」と呼び、これを人間本来のあり方とした。これに対し、武士や僧侶、儒学者などの支配階級を、自らは労働せず農民の生産物を搾取して暮らす「不耕貪食の徒(ふこうどんしょくのと)」と呼び、激しく糾弾した。
彼は、支配も被支配もなく、誰もが平等に働き、自然の営みと調和して生きる社会を「自然世(しぜんよ)」と名付け、これを理想社会とした。一方、法や身分制度によって人々を縛り、格差や戦争を生み出している当時の幕藩体制(封建社会)を「法世(ほうよ)」と呼んで否定し、徹底的な社会批判を展開した。彼の主著である『自然真営道(しぜんしんえいどう)』や『統道真伝(とうどうしんでん)』には、こうした独創的な自然哲学と社会論が独自の用語を用いて詳細に綴られている。
時代背景と厳しい現実への眼差し
昌益がこのような過激とも言える思想を抱くに至った背景には、彼が生きた江戸時代中期の厳しい社会現実があった。18世紀半ばの東北地方は、相次ぐ冷害や凶作によって飢饉(宝暦の飢饉など)が頻発し、農村は極度に荒廃していた。町医者として出羽や八戸の民衆と直接接していた昌益は、支配階級による重税に苦しみ、飢えに喘ぐ農民たちの悲惨な姿を目の当たりにしていた。
当時の支配イデオロギーであった朱子学(儒教)は、士農工商の身分秩序を固定化し、支配を正当化するための「虚学(欺瞞の学問)」であると昌益は看破した。医者として生命の尊厳を重んじる視点を持っていたからこそ、彼は観念的な学問を排し、人間の生存の基本である「食」と「農」に立脚した実践的な思想に到達することができたのである。
近代における「再発見」と歴史的意義
昌益の思想は、幕藩体制の根幹を否定する危険思想であったため、生前はほとんど世に知られることはなかった。著書の多くは出版を阻まれ、写本としてわずかな門人に引き継がれるのみで、歴史の闇に埋もれることとなった。
しかし明治時代末期の1899年、思想家・教育者である狩野亨吉(かのうこうきち)が、古書店で『自然真営道』の稿本を発見したことで、昌益の存在が初めて光を浴びた。さらに第二次世界大戦後、カナダの外交官・歴史学者であるハーバート・ノーマンが著書『忘れられた思想家』において昌益を世界に紹介した。これにより、日本の近世において、西欧の近代思想(民主主義や無政府主義など)に比肩する先駆的・独創的な平等思想を、自立的に生み出していた思想家として極めて高い歴史的評価が確立された。