有機水銀 (ゆうきすいぎん)
【概説】
熊本県の水俣病や新潟県の第二水俣病の原因となった、工場の排水に含まれていた極めて毒性の高い重金属化合物。高度経済成長期の日本において未曾有の公害病を引き起こし、国の環境行政や企業の社会的責任のあり方を抜本的に見直す契機となった物質である。
水俣病・第二水俣病の発生と原因物質
1950年代、熊本県の水俣湾周辺において、手足の痺れや視野狭窄、言語障害、さらには狂騒状態に至る原因不明の奇病が多発した。これが後に水俣病と呼ばれる公害病である。その原因物質こそが、化学メーカーである新日本窒素肥料(後のチッソ)水俣工場から排出された有機水銀(メチル水銀化合物)であった。アセトアルデヒドを製造する過程で触媒として使用された無機水銀が、プラント内部の副反応によって猛毒のメチル水銀へと変化し、そのまま海へと流出。これが食物連鎖を通じて魚介類の体内で生物濃縮され、それらを日常的に摂取した周辺の漁民らに深刻な中枢神経障害をもたらした。さらに1965年には、新潟県阿賀野川流域でも昭和電工鹿瀬工場の排水に起因する第二水俣病(新潟水俣病)が発生し、再び有機水銀による悲劇が繰り返された。
高度経済成長優先の影と因果関係の隠蔽
有機水銀による被害がここまで拡大・長期化した背景には、当時の日本が突き進んでいた高度経済成長政策がある。当時は産業の発展と経済的利益が最優先され、工場の操業停止や排水規制は企業の競争力を削ぐものとして忌避された。熊本大学医学部の研究班が早い段階で有機水銀説を突き止めたものの、チッソや政府・通商産業省(当時)は産業界への打撃を恐れ、これを否定する「爆発説」や「腐敗アミン説」などを対抗馬として提示し、因果関係の特定を意図的に引き延ばした。結果として、1956年の水俣病公式確認から、国が有機水銀を原因物質として正式に認定する1968年まで、12年もの歳月が費やされ、その間も有機水銀の放出が続いたため被害者は増え続けることとなった。
四大公害裁判と環境行政への転換
有機水銀がもたらした水俣病および第二水俣病は、富山県のイタイイタイ病(カドミウム)、三重県の四日市ぜんそく(亜硫酸ガス)と並び、四大公害として社会問題化し、昭和40年代には司法の場で争われることとなった(四大公害裁判)。これらの裁判において原告(被害者側)が相次いで勝訴したことは、企業の過失責任を厳しく問うとともに、「企業の利益よりも人間の生命や健康、環境の保全が優先されるべきである」という社会規範を確立させた。この世論の高まりに押される形で、政府は1967年に公害対策基本法を制定し、1970年のいわゆる「公害国会」での集中的な法整備を経て、1971年には環境庁を設置した。有機水銀公害の克服の歴史は、日本が「公害大国」の汚名から脱却し、環境保全型社会へと舵を切る決定的な転換点となったのである。