四日市ぜんそく(三重県)
【概説】
三重県四日市市の石油化学コンビナートから排出された亜硫酸ガスなどの大気汚染によって引き起こされた公害病。高度経済成長期の重化学工業化を背景に発生し、周辺住民の間に呼吸器系疾患の患者が多数出た。四大公害病の一つとして社会問題化し、日本の環境行政を大きく転換させる契機となった。
高度経済成長と石油コンビナートの建設
1950年代後半から始まった高度経済成長期、日本政府は経済の飛躍的な発展を目指して重化学工業化を強力に推し進めた。その象徴的事業の一つが、三重県四日市市における日本初の本格的な石油化学コンビナートの建設であった。旧海軍燃料廠の跡地などを利用して建設された第1コンビナート(塩浜地区)は1959年(昭和34年)に本格稼働を開始し、日本の産業発展に大きく貢献する一方で、深刻な環境破壊の引き金となった。
亜硫酸ガスによる大気汚染と被害の実態
コンビナートの工場群は、燃料として硫黄分を多く含む中東産の重油を大量に消費した。当時、排煙脱硫装置などの環境保護対策はほとんど講じられておらず、煙突から大量の亜硫酸ガス(二酸化硫黄)を含む黒煙や白煙が昼夜を問わず排出された。これにより四日市市一帯は深刻な大気汚染に見舞われ、悪臭とともにスモッグが立ち込めるようになった。
その結果、周辺の住民、とりわけ抵抗力の弱い高齢者や幼児を中心に、激しい咳や呼吸困難を伴う気管支喘息、慢性気管支炎、肺気腫などの呼吸器系疾患が多発した。これが「四日市ぜんそく」と呼ばれる公害病である。苦痛のあまり自ら命を絶つ患者が出るなど、事態は極めて凄惨なものとなった。
四日市公害訴訟とその画期的判決
被害の拡大にもかかわらず、行政の対応や企業側の対策は遅れがちであった。業を煮やした塩浜地区などの喘息患者9名は、1967年(昭和42年)、原因企業である昭和四日市石油などコンビナート進出企業6社を相手取り、損害賠償を求める民事訴訟(四日市公害訴訟)を津地方裁判所四日市支部に起こした。複数の企業が密集するコンビナートにおいて、どの企業の排煙が誰の健康被害を引き起こしたかという因果関係の証明が最大の焦点となった。
5年にわたる審理の末、1972年(昭和47年)7月の判決では、原告側の主張が全面的に認められた。裁判所は、企業が環境への配慮を怠った過失を厳しく指摘し、複数の企業による共同不法行為の成立を認めるという画期的な判断を下した。企業側は控訴を断念し、原告の勝訴が確定した。
四大公害病としての歴史的意義
四日市ぜんそくは、熊本県の水俣病、新潟県の新潟水俣病(第二水俣病)、富山県のイタイイタイ病と並ぶ四大公害病の一つに数えられる。他の三つが工業排水による水質汚濁と食物連鎖を通じた健康被害であったのに対し、四日市ぜんそくは唯一の大気汚染による公害病である点に特徴がある。
四日市公害訴訟の原告勝訴は、当時の日本社会に大きな衝撃を与え、「経済成長優先・人命軽視」の企業姿勢や国の産業政策に対する猛烈な反省を促した。この問題は、1967年の公害対策基本法制定や1968年の大気汚染防止法制定、さらには1971年の環境庁(現・環境省)設置、そして1973年の公害健康被害補償法制定へとつながり、日本の公害対策や環境行政を飛躍的に前進させる最大の原動力の一つとなったのである。