第3次桂太郎内閣
【概説】
第2次西園寺公望内閣の総辞職を受けて成立した、長州閥の桂太郎による3度目の内閣。大正天皇の詔勅を政局に利用する強引な手法が猛反発を招き、第一次護憲運動によってわずか53日で退陣に追い込まれた。藩閥政治の限界と大正デモクラシーの幕開けを象徴する短命政権である。
陸軍の強硬姿勢と第2次西園寺内閣の崩壊
1912(大正元)年、第2次西園寺公望内閣のもとで、陸軍は辛亥革命後の大陸情勢を理由に、朝鮮駐留部隊の二個師団増設を強く要求した。しかし、日露戦争後の財政難に苦しむ政府は、行財政整理を優先してこの要求を拒否した。これに反発した陸軍大臣の上原勇作は、天皇に直接辞表を提出(帷幄上奏)して辞任してしまう。
当時の制度であった軍部大臣現役武官制を盾に取り、陸軍は後任の陸相を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職を余儀なくされた。この陸軍の横暴ともとれる振る舞いと制度の悪用は、国民の間に強い反発を生むこととなった。
「宮中・府中の別」を無視した組閣と詔勅の乱発
西園寺の後継首班の選定は難航したが、元老会議の結果、長州閥の重鎮である桂太郎に大命が降下した。当時、桂は天皇を側近として補佐する内大臣兼侍従長の職にあり、宮中に身を置いていた。しかし桂は、就任直後の若い大正天皇の詔勅(天皇の命令)を引き出して政界に復帰したのである。
これは、明治時代に確立された「宮中・府中の別」(宮廷と政府の分離)の原則を破るものであった。さらに組閣にあたり、今度は海軍が予算削減を警戒して海軍大臣を出さない構えを見せると、桂は再び詔勅を利用して前内閣の斎藤実海相を留任させた。このように、事あるごとに天皇の権威を利用して政局を乗り切ろうとする桂の手法は、「玉座の陰に隠れて政敵を狙撃する」ものとして激しい非難を浴びることとなった。
第一次護憲運動の高揚と「大正政変」
桂の強引な政治手法に対し、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが中心となり、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに掲げる第一次護憲運動が全国規模で巻き起こった。特に議会における尾崎の「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒さんとするもの」という痛烈な桂批判の演説は有名である。
この運動は、ジャーナリズムや都市の民衆、実業家などを巻き込んで急速に拡大した。桂は対抗措置として、自らの支持基盤となる新党(のちの立憲同志会)の結成を企てるとともに、議会を度々停会して時間稼ぎを図ったが、火に油を注ぐ結果にしかならなかった。
53日での退陣と歴史的意義
1913(大正2)年2月、議会が再開されると、数万人の民衆が国会議事堂周辺を包囲し、政府寄りの新聞社や交番を襲撃する暴動へと発展した。桂は三度目の詔勅を利用して政友会の倒閣運動を抑え込もうとしたが、政友会総裁の西園寺公望すら党内を抑えきれず、ついに万策尽きた桂は組閣からわずか53日で内閣総辞職に追い込まれた。この一連の政治的動乱を大正政変と呼ぶ。
第3次桂太郎内閣のあっけない崩壊は、もはや藩閥や官僚といった特権階級が、民衆の世論と政党の力を無視して政治を行えない時代になったことを白日にさらした。この事件は、以後の日本社会を席巻することになる大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的潮流の、力強い幕開けとなったのである。