非(反)戦論 (ひ(はん)せんろん)
【概説】
日露戦争の開戦前夜から戦中にかけて展開された、対露戦争に反対する言論・思想運動。キリスト教的人道主義に基づく絶対平和主義や、社会主義に基づく労働者の国際連帯の立場から、当時主流となった主戦論に対抗した。
主戦論の勃興と「平民社」の結成
日清戦争後のロシアによる満洲・朝鮮への進出に対し、日本の政界や言論界では対露強硬論(主戦論)が急速に台頭した。東京帝国大学の教授らによる「七博士の建議」などが世論を刺激し、当時、最大の発行部数を誇り、当初は非戦論を唱えていた新聞『万朝報』も主戦論へと方針を転換した。これに異を唱えたのが、同紙の記者であった幸徳秋水や堺利彦である。彼らは主戦論への転向に抗議して退社し、1903(明治36)年11月に平民社を結成。週刊『平民新聞』を創刊し、戦争反対の言論戦を展開した。
非戦論の二つの思想的支柱
明治期の非戦論は、主に二つの異なる思想的背景から推進された。第一に、内村鑑三らに代表されるキリスト教的人道主義(人道主義的非戦論)である。内村は、聖書の教えに基づき、いかなる戦争も「国家による殺人」であるとして、絶対的な非戦・平和主義を貫いた。第二に、幸徳秋水や堺利彦らが掲げた社会主義的非戦論である。彼らは、戦争を資本家や支配階級の利益追求のための手段であり、万国の労働者にとっては犠牲を強いるものにすぎないとし、ロシアの社会主義者との文通を通じて「万国の労働者の連帯」を呼びかけた。また、与謝野晶子が詩『君死にたまふことなかれ』を発表し、征露軍の旅順口包囲軍に加わっていた弟の身を案じる心情から戦争に疑問を投げかけたことも、この時期の広義の非戦論的潮流と深く結びついている。
国家による弾圧と非戦論の歴史的意義
戦争の推移とともに愛国心やナショナリズムが高揚するなか、非戦論は「売国奴」として激しい社会的非難を浴びた。平民社は政府による再三の発禁処分や治安警察法による弾圧に晒され、1905(明治38)年1月に『平民新聞』は第64号をもって廃刊、平民社も解散に追い込まれた。しかし、メディアや知識人の大部分が国家の戦争遂行に迎合した状況において、主体的な平和思想を掲げて言論統制に立ち向かった彼らの行動は、その後の大正デモクラシーや戦後の反戦・平和運動に大きな影響を与えることとなった。