戸水寛人 (とみずひろと)
【概説】
明治から昭和初期にかけて活動した法学者、東京帝国大学教授。日露戦争前夜に強硬な対露開戦論を主張した「七博士意見書」の中心人物。ポーツマス講和条約に反対して政府から休職処分を受け、大学の自治を揺るがす「戸水事件」を引き起こしたことで知られる。
日露開戦を煽った「七博士意見書」
戸水寛人はローマ法の権威として東京帝国大学で教鞭を執る傍ら、対外強硬論(ナショナリズム)を強く支持する知識人であった。1903年(明治36年)6月、ロシアの満洲占領を日本の存立に関わる危機と捉えた戸水は、富井政章や小野塚喜平次ら他の帝国大学教授とともに、桂太郎首相らに早期開戦を促す建議書(七博士意見書)を提出した。当時の内閣や元老がロシアとの平和的交渉を模索していた中、この意見書は新聞等に公開され、国民の対露敵対心を煽ることで日露戦争への開戦世論を急速に高める触媒となった。
言論統制への反発と「戸水事件」
日露戦争が日本の優勢で進むと、戸水はさらに強硬になり、「バイカル湖以東のロシア領土割譲」や「償金(賠償金)の獲得」など、現実離れした講和条件を主張して譲らなかった。1905年(明治38年)に結ばれたポーツマス条約が賠償金なしという妥協的結果に終わると、戸水は政府を「弱腰」と激しく非難した。これに対し、第一次桂内閣の文部大臣であった久保田譲は、政府批判を繰り返す戸水を文官分限令に基づいて休職処分とした。この政府による介入は、東京帝国大学の教授陣による猛烈な反発を招き、総長の山川健次郎をはじめとする全学的な辞職抗議運動へと発展した。これが日本教育史における戸水事件である。結果として、大学側の「学問の自由」と「大学の自治」の主張が一定の支持を集め、久保田文相は辞任、翌1906年に戸水は復職を果たした。この事件は、後年の滝川事件や天皇機関説事件など、国家権力による学問への弾圧・介入の歴史の先駆的な事例として重要な意義を持っている。