七博士意見書 (しちはかせいけんしょ)
【概説】
日露戦争開戦前夜の1903(明治36)年6月、東京帝国大学などの法学博士7名が政府に提出した対露強硬策を促す建白書。ロシアの満洲占領を日本の生存を脅かす重大な危機と捉え、政府の妥協的外交を「軟弱外交」と厳しく批判した。知識人によるナショナリズムの表明であり、開戦に向けて世論を煽動する決定的な契機となった。
意見書提出の歴史的背景:緊迫する東アジア情勢
1900年の義和団事件の際、清国に出兵したロシアは、事変終息後も満洲(中国東北部)に軍を駐留させ続け、事実上の領有化を進めていた。これに対し、日本国内では伊藤博文らを中心とする「満韓交換(ロシアの満洲支配を認める代わりに日本の韓国支配を認めさせる方針)」による日露協商論と、山県有朋や桂太郎内閣が進める日英同盟を基軸とした対露強硬論が対立していた。
しかし、ロシアが撤兵約束を履行しないことが明らかになると、国内では対露警戒感が急速に高まった。こうした中、東京帝国大学教授の戸水寛人(とみずひろんど)、富井政章、寺尾亨、金井延、小野塚喜平次、高橋作衛、および学習院教授の中村進午の7人の法学・政治学博士が、政府の慎重な外交姿勢にしびれを切らし、行動を起こすこととなった。
意見書の内容と世論の主戦論化
1903年6月、七博士は内閣総理大臣・桂太郎や外務大臣・小村寿太郎、さらに元老たちに対して「対露同志会」などの対露強硬派組織と連携しながら意見書を提出した。その内容は、ロシアの満洲占領は日本の安全保障、特に朝鮮半島の権益を根底から脅かすものであるとし、これ以上の外交交渉や妥協は無意味であり、直ちに武力行使(開戦)を決断すべきであるという極めて過激な主戦論であった。
この意見書は新聞各紙によって大々的に報じられ、国民の危機感を煽った。当時、日露開戦を主張していた『万朝報』や『東京日日新聞』などのメディアと結びつくことで、国民の間には「弱腰な政府を排し、ロシアと戦うべし」という世論が急速に形成されていった。このように、最高学府の知識人が「学問的知見」を背景にして開戦論を理論武装したことは、開戦を迷う政府の後押しとなり、結果として翌1904年の日露戦争勃発を決定づける要因の一つとなった。
日露戦争後の「戸水事件」と大学の自治
七博士意見書の影響は日露戦争中、そして終戦後にも及んだ。1905年、日露戦争がポーツマス条約によって講和を迎える際、主戦論の急先鋒であった戸水寛人らは、ロシアからの賠償金不獲得などを「屈辱外交」と激しく非難し、さらなる戦争継続やバイカル湖以東の領土割譲という極端な主張を展開した。
これを治安攪乱および過激な政治運動とみなした桂太郎内閣の文部大臣・久保田政周は、戸水寛人を休職処分に処した。しかし、この政府による強硬措置は、東京帝国大学総長・山川健次郎をはじめとする教授会の激しい反発を招くこととなった。教授会は「学問の自由」および「大学の自治」を侵犯するものとして政府に抗議し、全学部長が辞職を辞さない態度を示した。この一連の騒動は戸水事件と呼ばれ、最終的に文部大臣が辞任し、戸水も復職することで収束したが、国家権力と学問の自由との緊張関係を露呈した象徴的な出来事として日本近代史に刻まれている。