旧里帰農令(帰農令) (きゅうりきのうれい)
【概説】
老中・松平定信が主導した寛政の改革において、1790年(寛政2年)に出された法令。江戸に流入した農民に対し、旅費や農具代などの資金を与えて故郷に帰り、農業に復帰することを促した奨励策である。農村の荒廃を防ぎ年貢収入を確保するとともに、江戸の治安維持を図る目的があった。
制定の背景:天明の飢饉と江戸への人口集中
江戸時代中期の18世紀後半、農村では商品作物栽培の進展などにより貧富の差が拡大し、土地を失った農民が続出していた。さらに、1782年から始まった天明の飢饉による深刻な被害が追い打ちをかけた。飢饉によって農村での生活が立ち行かなくなった没落農民たちは、仕事を求めて大都市、特に江戸へと大量に流入することになった。
こうした農民の離村は、幕府や諸藩の財政基盤である年貢収入の減少に直結する深刻な問題であった。同時に、江戸に流れ込んだものの定職に就けない者たちは「無宿人」となり、都市の治安悪化や打ちこわし発生の大きな要因となっていた。このような危機的状況を打開すべく、1787年に老中に就任した松平定信は、農政の再建と都市問題の解決に着手することとなる。
法令の具体的内容と目的
1790年(寛政2年)、松平定信は江戸に流入した農民を故郷の村(旧里)へ帰すため、旧里帰農令を発布した。この法令の最大の特徴は、強制的に村へ送還するのではなく、あくまで本人の希望に基づく「奨励策」であった点にある。
帰郷を希望する者に対しては、道中の旅費だけでなく、帰村した後の農具代や当面の生活費などの資金を幕府から支給するという手厚い保護措置が取られた。これにより、荒廃した農村の労働力を回復させて年貢の増収を図るとともに、江戸のあぶれ者を減らして治安を安定させるという、一石二鳥の効果を狙ったのである。
他の都市政策との連動と政策の限界
旧里帰農令は単独の政策ではなく、定信が推進した寛政の改革における一連の都市・農村政策と密接に連動していた。例えば、帰郷を望まない無宿人や、犯罪を犯す恐れのある者に対しては、石川島に人足寄場(にんそくよせば)を設置して収容し、職業訓練を行うことで更生と治安維持を図っている。
しかし、旧里帰農令の効果は限定的であった。すでに江戸での都市生活や日用稼ぎに慣れ親しんだ者にとって、厳しい農作業や村落共同体のしがらみが待つ故郷へ戻るメリットは小さかった。また、支給される補助金目当てで偽って申し出る者も現れるなど、政策の実効性は乏しく、江戸への人口集中や農村の荒廃という構造的な問題を根本から解決するには至らなかった。
のちの「人返しの法」との比較
江戸時代後期における農民の都市流入防止策として、旧里帰農令としばしば対比されるのが、1843年(天保14年)に老中・水野忠邦が天保の改革で発布した人返しの法(ひとかえしのほう)である。
寛政期の旧里帰農令が資金援助を伴う「奨励策」であったのに対し、天保期の人返しの法は、江戸にいる農村出身者を強制的に帰郷させ、さらには新規の江戸流入を固く禁じる「強制策」であった。この違いは、寛政期から天保期にかけて、農村からの人口流出と都市の治安悪化がいよいよ放置できない末期的な段階に達していたことを示している。両者のアプローチの違いを理解することは、江戸後期の社会変動を把握する上で極めて重要である。