平民新聞
【概説】
明治時代後期、幸徳秋水や堺利彦らが結成した平民社から発行された週刊新聞。日露戦争前夜の開戦熱が高まるなかで絶対非戦論と社会主義を唱え、激しい言論弾圧を受けながらも日本の初期社会主義運動の中心的役割を担った。
創刊の背景と平民社の結成
1903年(明治36年)、日露関係が極度に緊張するなか、日本国内では対露強硬論や開戦論が急速に高まっていた。当時、進歩的かつ大衆的な新聞として人気を博していた『万朝報(よろずちょうほう)』も、社主の黒岩涙香が開戦論へと社是を転換した。これに対し、同社の記者として非戦論を主張していた幸徳秋水や堺利彦、内村鑑三らは反発して退社する。このうち幸徳と堺は、言論による非戦論と社会主義思想の普及を継続するため、同年10月に平民社を結成し、11月に週刊紙として『平民新聞』を創刊した。
反戦・平和主義と国際連帯
『平民新聞』は、「平民主義・社会主義・平和主義」を基本理念に掲げた。特に日露戦争(1904年〜1905年)の期間を通じて、一貫して絶対非戦論を主張したことは歴史的に極めて重要である。当時の言論界がほぼ総毛立って戦争賛美に傾斜するなか、『平民新聞』は戦争がもたらすのは労働者・平民層の犠牲と搾取にすぎないと喝破した。
また、1904年3月には「与露国社会党書(ロシア社会党に与うる書)」を掲載し、戦争の当事国であるロシアの社会主義者に対して「我々の敵は他国の人民ではなく、自国の軍国主義と資本主義である」と国際的な連帯を呼びかけた。これは、国境を越えたプロレタリア国際主義の日本における先駆的な実践であった。
『共産党宣言』の翻訳と激化する弾圧
同紙は反戦運動だけでなく、社会主義理論の啓蒙にも尽力した。1904年11月に発行された第53号(創刊一周年記念号)では、幸徳秋水と堺利彦の共訳によるマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』の初邦訳が掲載された。しかし、これが政府の逆鱗に触れ、同号は即日発行禁止処分を受けた。
政府による『平民新聞』への言論弾圧は極めて過酷であった。発刊された全64号のうち、無事に発行できたものは少なく、度重なる発売禁止、罰金の賦課、そして印刷機の差し押さえなどが繰り返された。さらに、編集発行人であった幸徳や堺らも筆禍事件として起訴され、次々と投獄される事態に陥った。
終刊と後世への影響
度重なる弾圧による莫大な罰金と資金難、さらには主要メンバーの投獄により、平民社は新聞の継続が困難となった。1905年(明治38年)1月、ついに第64号をもって自主廃刊を余儀なくされる。この最終号は、全体が赤いインクで印刷された「赤刷り」であり、「平民新聞終刊の辞」を掲げて社会主義の不屈の精神を示した象徴的なものであった。直後に平民社も解散へと追い込まれた。
『平民新聞』の発行期間はわずか1年2ヶ月にすぎなかったが、その存在意義は計り知れない。日露戦争下という国家主義が吹き荒れる異常事態において、反戦と社会変革の旗を掲げ続けたことは、日本の初期社会主義運動や労働運動における最大の金字塔として評価されている。同紙の精神は、のちの『直言』や『光』といった後継紙、そして大正デモクラシー期の無産運動へと脈々と受け継がれていくこととなった。