熊本バンド (くまもとばんど)
【概説】
明治初期の熊本洋学校において、アメリカ人教師ジェーンズの感化を受け、キリスト教(プロテスタント)への入信と伝道を誓い合った青年たちのグループ。横浜バンド、札幌バンドと並び、近代日本におけるプロテスタントの三大源流(源泉)の一つとされる。のちに新島襄が創設した同志社英学校へと合流し、日本のキリスト教界や思想・教育分野に多大な影響を与えた。
熊本洋学校の設立とジェーンズの教育
明治維新期、熊本藩では「実学党」と呼ばれる一派が藩政改革を主導し、近代的な人材育成のために1871年に熊本洋学校を設立した。その指導者(お雇い外国人教師)として招聘されたのが、アメリカ退役陸軍大尉のL・L・ジェーンズであった。ジェーンズは数学や物理、歴史、英語などを厳格に教える一方で、自身の私邸で自主的な聖書研究会を開き、キリスト教の精神を青年たちに説いた。彼の誠実で情熱的な人格は、儒教的な倫理観を重んじる「実学」の素養を持った武士階級出身の若者たちを強く魅了し、彼らが主体的に聖書を学ぶ契機となった。
花岡山の奉教誓約と激しい弾圧
ジェーンズの教えに共鳴した青年たちは、1876年1月30日、熊本市内の花岡山(はなおかやま)の山頂に集まった。彼らは互いに手を取り合い、キリスト教を信奉してこの教えを日本に広めることを誓う「奉教誓約」を交わした。この結盟に関わった青年たちが、後に「熊本バンド」と呼ばれるようになる。しかし、当時の熊本では依然として「邪宗門」たるキリスト教に対する忌避感が根強く、青年たちの決意は家族や藩の保守派から猛烈な迫害を引き起こした。座敷牢への監禁、絶縁などの過酷な試練を受け、この混乱の中で熊本洋学校自体も閉校へと追い込まれていった。
同志社への合流と近代日本への足跡
洋学校の閉校により行き場を失った青年たちは、ジェーンズの推薦や斡旋を受け、1876年秋、新島襄が京都に創設したばかりの同志社英学校へと入学した。結成メンバーの合流は、開校当初の同志社にキリスト教的かつ学問的な活気をもたらし、大学の基礎を築く上で決定的な役割を果たした。のちにこのグループからは、同志社総長を務めた小崎弘道や海老名弾正、有力な牧師となった宮川経輝や金森通倫、さらに思想・言論界の重鎮となった徳富蘇峰や、文学者の徳冨蘆花(中退)など、近代日本の歩みに大きな足跡を残す指導的人材が数多く輩出された。