新島襄

アメリカに密航して神学などを学び、帰国後に京都でプロテスタント系の同志社(英学校)を創設した人物は誰か?
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★★★

新島襄 (にいじまじょう)

1843年〜1890年

【概説】
幕末にアメリカへ密航して神学や自然科学を学び、帰国後に京都でプロテスタント系の同志社英学校(現在の同志社大学)を創設した明治時代の宗教家・教育者。キリスト教精神に基づく自由主義的な教育を実践し、近代日本の教育発展に多大な貢献を果たした。

幕末の密航とアメリカでの学び

新島襄(本名:七五三太)は、上野国安中藩(現在の群馬県)の江戸藩邸に生まれた。幼少期から蘭学や漢学を学んでいたが、ペリー来航以後の激動の時代において、西洋の先進的な学問や思想に強い関心を抱くようになった。特に、プロテスタントの宣教師が著した漢訳の聖書や地理書を読んだことで、キリスト教と西洋文明への憧れを決定的なものとした。

1864年(元治元年)、新島は国禁を犯して函館からアメリカ船に乗船し、密航を企てた。上海を経由してアメリカのボストンに到着すると、船主であったA・ハーディーの多大な援助を受けることとなった。その後、フィリップス・アカデミーやアーモスト大学で学び、日本人として初めて西洋の大学の学士号を取得。さらにアンドーヴァー神学校へ進んで神学を修め、正式にプロテスタントの牧師となった。

岩倉使節団との邂逅と帰国

新島のアメリカ滞在中における重要な転機となったのが、1872年(明治5年)の岩倉使節団との出会いである。使節団がアメリカを訪問した際、語学力と西洋事情に精通していた新島は通訳として抜擢され、木戸孝允や文部大丞の田中不二麿らとともに欧米各国の教育制度を視察して回った。

この時の政府高官との人脈形成は、後の新島の教育事業において極めて重要な意味を持った。使節団への協力によって密航の罪を特赦された新島は、欧米の教育と社会の根底にあるキリスト教精神こそが近代化に不可欠であると確信し、祖国でのキリスト教主義学校の設立を決意して1874年に帰国した。

同志社英学校の創設とキリスト教主義教育

帰国した新島は、キリスト教への風当たりが依然として強かった当時の日本において、学校設立に奔走した。岩倉使節団で親交を深めた木戸孝允らの後援に加え、京都府顧問の山本覚馬(後に新島の妻となる八重の兄)の多大な協力を得て、1875年(明治8年)に京都で同志社英学校を創設した。

同志社という校名は「志を同じくする者が創る結社」を意味する。開校当初は生徒数わずか8名であったが、やがて熊本洋学校でアメリカ人教師ジェーンズの薫陶を受けた青年たち(熊本バンド)が合流したことで、同志社は日本におけるプロテスタントの中心的な教育機関へと飛躍的な成長を遂げていった。

新島襄の教育理念と歴史的意義

明治政府が富国強兵を目指し、国家主義的で実学偏重の教育を推し進める中、新島は一貫してキリスト教精神に基づく自由主義・人格主義教育を提唱した。彼の残した言葉に「良心之全身ニ充満シタル丈夫(良心を手腕に運用する人物)」の育成というものがあり、単なる知識や技術の習得にとどまらず、道徳心と自立心を持った「一国の良心」たる個人の育成を教育の最上位に置いたのである。

晩年の新島は、同志社を欧米に匹敵する私立の総合大学へ昇格させるべく設立運動に命を削り、志半ばの1890年(明治23年)に病のため46歳でこの世を去った。しかし、彼の蒔いた「良心教育」の種は近代日本の思想界や教育界に深い影響を与え続け、彼が残した同志社は現在も日本を代表する私立大学(同志社大学)の一つとしてその理念を受け継いでいる。

新島襄の生涯 (1975年)

同志社設立へ捧げた情熱と、幕末から明治を駆け抜けた新島襄の壮絶な生涯を克明に描いた伝記の金字塔。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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