平民社

日露戦争前夜の1903年、幸徳秋水と堺利彦が非戦論を貫くために設立した社会主義の言論団体は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
平民社(Wikipedia)

平民社 (へいみんしゃ)

1903〜1905年

【概説】
幸徳秋水と堺利彦が1903年に設立した、日本最初の本格的な社会主義・非戦論団体。日露戦争前夜から最中にかけて週刊『平民新聞』を発行し、国家主義や主戦論が渦巻く世論の中で平民主義、平和主義、社会主義を掲げて非戦論を貫いた日本の初期社会主義運動の拠点。

主戦論への抵抗と平民社の結成

1903年(明治36年)、満州および朝鮮半島をめぐる日本とロシアの対立が深まる中、日本の言論界は急速に主戦論(開戦論)へと傾斜していった。当時、最も有力な非戦論の拠点であった新聞『万朝報(よろずちょうほう)』も、主筆の黒岩涙香が開戦論へと方針を転換した。

これに対し、同紙の記者であった幸徳秋水堺利彦は猛反発し、キリスト教人道主義の立場から非戦を唱えていた内村鑑三らとともに『万朝報』を退社した。幸徳と堺の2人は、独自のメディアを通じて非戦論と社会主義の理想を訴え続けるため、同年11月に「平民社」を設立。週刊『平民新聞』を創刊し、言論界における抵抗の砦を築いた。

『平民新聞』の刊行と国際的非戦運動

平民社が発行した『平民新聞』は、赤刷りの人目を引く紙面で、労働問題の告発や社会主義思想の紹介を行った。日露戦争が勃発(1904年2月)したあとも一貫して「非戦論」を掲げ、戦時下の日本社会において異彩を放ち続けた。

特に重要な出来事として、1904年3月の「与露国社会党書」(ロシア社会党に与うる書)の掲載が挙げられる。これは敵国であるロシアの社会主義者に対し、「祖国愛や軍国主義の欺瞞に惑わされず、万国の労働者・同志として団結し、戦争に反対しよう」と呼びかけた共同宣言であった。このメッセージは、のちにアムステルダムで開催された第二インターナショナル万国社会党大会で紹介され、日本の平民社とロシアのプレハーノフらによる「国境を越えた反戦の連帯」として世界的な称賛を浴びた。

さらに同年11月には、創刊1周年記念としてマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を幸徳と堺の共訳によって日本で初めて翻訳・掲載した。しかし、これは当時の明治政府によって治安警察法に基づき即日発売禁止処分とされた。

政府の弾圧と解散、その歴史的意義

戦時下の言論統制を強める警察や司法当局は、平民社に対して執拗な弾圧を加えた。度重なる発禁処分や、幸徳・堺らの相次ぐ禁錮刑・罰金刑により、平民社の資金繰りは悪化し、組織的な維持が困難となった。1905年1月、第64号をもって『平民新聞』は廃刊を余儀なくされ、同年10月には平民社自体も解散へと追い込まれた。

平民社の活動期間はわずか2年足らずであったが、そこで培われたネットワークと思想は、のちの日本社会主義運動の源流となった。平民社には、女性解放運動の先駆者である管野スガや、のちに無政府主義(アナキズム)運動を牽引する大杉栄、荒畑寒村など、大正・昭和期の社会運動を担う多様な人材が集っており、言論弾圧が激化する「冬の時代」を経てなお、日本の進歩主義運動に決定的な影響を与え続けることとなった。

社会主義神髄 (岩波文庫 青 125-2)

社会主義の思想的背景を平易な言葉で紐解き、日本における運動の火付け役となった記念碑的な草分けの書。

幸徳秋水:理想的、革命的、急進的ならん (ミネルヴァ日本評伝選)

権力に抗い信念を貫いた思想家の生涯を辿り、激動の時代を生きた革命家の内面に迫る迫真の評伝。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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