猿楽能(能・能楽)

田楽や猿楽の諸要素を吸収し、室町時代に観阿弥・世阿弥の親子によって大成された芸術性の高い仮面劇を何というか?
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★★★

猿楽能(能・能楽) (さるがくのう)

14世紀後半〜

【概説】
寺社の祭礼などで演じられていた滑稽な模倣芸能である猿楽が、室町時代に観阿弥・世阿弥父子によって芸術性の高い歌舞劇へと大成された日本の伝統芸能。足利義満の庇護を受けて幽玄の美を追求することで武家や公家の支持を集め、後世の日本文化に多大な影響を与えた。

猿楽の起源と発展

猿楽の起源は、奈良時代に唐から伝来した「散楽(さんがく)」にさかのぼる。散楽は奇術、軽業、曲芸、そして滑稽な物真似などを内容とする大衆的な雑芸であった。平安時代に入ると、この散楽が日本固有の芸能や風俗と結びつき、「猿楽(申楽)」と呼ばれるようになった。鎌倉時代になると、寺社の祭礼や法会において演じられるようになり、専業の役者たちが「座」という集団を結成して興福寺や春日大社などの有力な寺社の保護を受けるようになった。

観阿弥・世阿弥による大成と足利義満の庇護

室町時代初期、大和国(現在の奈良県)を拠点とする大和猿楽四座(結崎・外山・坂戸・円満井)のうち、結崎座(後の観世座)を率いた観阿弥は、猿楽の歴史に大きな革新をもたらした。観阿弥は、当時流行していた田楽の要素や、リズミカルな音楽性を持つ曲舞(くせまい)の長所を猿楽に取り入れ、単なる物真似芸から音楽的な歌舞劇へと発展させた。1374年(応安7年/文中3年)、京都の今熊野神社で彼らの演能を見た室町幕府第3代将軍・足利義満は、その才能を高く評価し、以降手厚い庇護を与えた。これにより、猿楽能は武家社会や公家社会の最上層に深く浸透していくこととなる。

「幽玄」の美学と能楽の芸術理論

観阿弥の死後、跡を継いだ息子の世阿弥は、将軍家や公家との交流を通じて高い教養を身につけ、能の芸術性をさらに高い次元へと引き上げた。世阿弥は、従来の滑稽な物真似を中心とした芸風から、内面的な優美さや情趣を重んじる「幽玄」の美へと能の理念を昇華させた。また、現実の人間ではなく、霊的な存在(神や亡霊など)が主人公となって自らの過去を語る「夢幻能」という独自の演劇形式を確立した。世阿弥はその演劇理論と役者の心得を『風姿花伝(花伝書)』をはじめとする多くの能楽論書にまとめ、これが後世の役者たちにとって重要な指針となった。

江戸時代以降の展開と歴史的意義

江戸時代に入ると、能は江戸幕府の公式な儀式や祝賀行事などで演じられる「式楽」として定められた。幕府や諸大名の強力な保護と統制の下で儀式化・洗練化が進み、この頃から「能楽」という呼称が定着していった。武士の教養として謡曲(能の台本)が重んじられる一方で、能そのものは庶民の日常的な娯楽からは次第に離れていったが、そのストーリーや音楽性は歌舞伎や浄瑠璃などの近世芸能に多大な影響を与えた。明治維新による幕府の崩壊で一時衰退の危機に陥るものの、皇室や華族、財界人の支援により復興を果たし、現代に至るまで日本を代表する古典芸能として世界的な評価を受けている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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