芝居小屋
【概説】
江戸時代において、歌舞伎や人形浄瑠璃などの芸能を興行するために建設された常設の劇場。都市の町人文化の興隆とともに発展し、単なる観劇の場にとどまらず、流行の発信地として庶民の社交や娯楽の中心的な役割を担った空間。
「江戸三座」の成立と幕府の公認制度
江戸時代初期、歌舞伎をはじめとする芸能は河原や空き地に建てられた仮設の舞台(辻芝居)で行われていたが、やがて都市の発展に伴い常設の芝居小屋が誕生した。江戸幕府は、無秩序な興行が治安を乱すことを警戒し、特定の興行元にのみ認可を与える統制策をとった。これにより公認された江戸の芝居小屋が、中村座・市村座・森田座・山村座のいわゆる「江戸四座」である。しかし、1714年(正徳4年)に大奥を巻き込んだスキャンダルである江島生島事件が発生すると、山村座は廃絶処分となり、以降は「江戸三座」(あるいは竜地を指して猿若三座)が明治期に至るまで江戸歌舞伎の伝統を守り続けることとなった。
独自の舞台構造と劇場空間の発展
芝居小屋は、観客と舞台の一体感を重視する日本独自の劇場建築へと進化を遂げた。舞台から客席の後方へと貫く花道が設置され、役者の登場や退場を間近で演出する効果を生み出した。さらに、18世紀後半には舞台を円形にくり抜いて回転させる回り舞台や、床下から役者や大道具をせり上げる迫り(せり)といった高度なからくり技術が導入され、視覚的にダイナミックな演出が可能となった。客席は土間を格子状に区切った「枡席(ますせき)」を中心に、左右の2階部分には高級な「桟敷席(さじきせき)」が設けられ、身分や経済力に応じた多様な観客層が朝から日暮れまで一日中観劇を楽しんだ。
都市文化における意義と「悪所」としての統制
芝居小屋は、当時の最新のファッションや音楽、流行語を生み出す最大のトレンド発信地であった。芝居小屋の周辺には「芝居茶屋」と呼ばれる付帯施設が立ち並び、飲食や観劇の手配を行うなど、一大レジャー産業を形成していた。しかし幕府からは、遊郭(吉原)と並んで庶民の奢侈(しゃし)を助長し、身分秩序を曖昧にする「悪所(あくしょ)」として警戒され続けた。特に1840年代の天保の改革においては、老中・水野忠邦による風俗統制の標的となり、江戸三座は都心部から郊外の浅草猿若町へと強制的に移転させられた。それでも、庶民の芝居熱が衰えることはなく、地方でも「地歌舞伎」を上演するための農村歌舞伎舞台が数多く造られるなど、芝居小屋の文化は日本各地へと深く浸透していった。