主(開)戦論 (しゅ(かい)せんろん)
【概説】
義和団事件以降におけるロシアの満州占領と朝鮮進出に対抗し、外交交渉ではなく武力衝突によってこれを解決すべきだとした強硬な世論の主張。国家主権や東アジアにおける「利益線」の防衛を掲げ、メディアや知識人、右翼団体などが世論を主導して、日露戦争開戦への決定的な後押しとなった。
ロシアの満州占領と安全保障上の危機
1900年の義和団事件(北清事変)の混乱に乗じ、ロシアは満州(中国東北部)へ大軍を派遣して事実上の軍事占領下に置いた。乱の終息後もロシアは撤兵の約束を履行せず、さらに朝鮮半島北部へと勢力を伸ばそうとする動きを見せた。これに対し、日本国内では深刻な危機感が高まった。当時の日本の外交安全保障政策において、朝鮮半島は国家の主権を維持するために不可欠な「利益線」と位置づけられていたためである。満州におけるロシアの優位が確立し、その触手が朝鮮にまで伸びることは、日本の死活問題と受け止められ、外交的な解決を諦めて戦火を交えることも辞さないという主(開)戦論が急速に支持を集める背景となった。
対外硬運動の激化と言論界の主戦論化
主(開)戦論を牽引したのは、対外強硬派の政治団体、メディア、そして大学教授などの言論人であった。近衛篤麿らが結成した対露同志会などが反露世論を煽り、1903年6月には東京帝国大学の教授らによる七博士意見書(対露強硬上奏文)が提出され、政府に対して早期開戦を強く迫った。これに呼応するように新聞メディアも対露開戦を主張。当初は日露融和や非戦の姿勢を保っていた大手新聞『万朝報』も1903年秋に主戦論へ転向し、その他『大阪朝日新聞』や『東京日日新聞』なども排外主義的なナショナリズムを煽る報道を繰り返した。これにより、国民世論は一気にロシアとの決戦を支持する方向へと雪崩を打つこととなった。
非戦論との抗争と開戦への帰結
主(開)戦論が激化する一方で、これに断固として抗議する非戦論(反戦論)も展開された。『万朝報』の主戦論転向に抗議して退社した幸徳秋水や堺枯川(利彦)は平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊して社会主義の立場から反戦を訴えた。また、キリスト教徒の立場からは内村鑑三が人道主義的な非戦を叫び、文学界でも与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」を発表するなど独自の抵抗を示した。しかし、これらの非戦運動は過熱する主戦論の荒波にかき消され、少数派に追い込まれていった。政府内でも、慎重派である伊藤博文らの「日露協商論(満韓交換論)」は退けられ、日英同盟を機軸とする桂太郎内閣(小村寿太郎外相ら)の主導のもと、1904年2月に日本は日露戦争の開戦へと踏み切ることとなった。