安田(安田財閥)
【概説】
安田善次郎が幕末に開業した両替商を起源とし、安田銀行などの金融部門を圧倒的な中心として成長した日本の四大財閥の一つ。三井・三菱・住友のように産業部門の多角化を進めるのではなく、銀行・保険などの金融業に特化した点が最大の特徴であり、近代日本の金融インフラ形成に多大な影響を与えた。
一代で築かれた金融帝国
安田財閥の創始者である安田善次郎は、富山藩の下級武士の家に生まれ、江戸に出て奉公したのち、1864年に両替商「安田屋」を開業した。明治維新の動乱期にあって、市場で暴落していた太政官札(新政府の不換紙幣)の売買や公金取り扱いによって巨額の利益を上げ、資本の蓄積に成功した。三井や住友が江戸時代からの豪商としての歴史的背景を持ち、三菱が政商として政府の手厚い保護を受けて成長したのに対し、安田は善次郎の卓越した相場観と勤倹貯蓄の精神により、ほぼ一代で財閥の基礎を築き上げた点に大きな特色がある。
「金融の安田」の確立と保善社
安田は初期から一貫して金融業を中心に事業を拡大した。1876年に第三国立銀行の設立に参画したのち、1880年には個人営業の安田銀行を設立し、さらに安田生命保険や東京火災保険(現在の損害保険ジャパン)などを次々と立ち上げた。1887年には財閥の本社機能・持株会社に相当する保善社を設立し、一族による同族支配体制とコンツェルンの枠組みを整備した。他財閥が鉱山経営や造船、貿易、紡績といった産業部門への投資を中核に据えていたのに対し、安田財閥は資本の大部分を金融機関に集中させ、「金融の安田」と呼ばれる特異な地位を確立した。
他財閥との連携と浅野財閥への支援
金融部門に特化していた安田財閥は、自ら直接的に産業支配を行うことには消極的であったが、他の企業家や新興財閥に対する強力な資金の供給源としての役割を担った。その代表例が浅野総一郎が率いる浅野財閥への支援である。安田は浅野のセメント事業や造船、港湾開発(京浜工業地帯の埋め立てなど)に対して莫大な融資を行い、実質的に浅野財閥を安田の産業部門的な位置づけとして機能させた。また、鉄道や不動産(東京建物など)への投資も行ったが、あくまで堅実な利回りを重視する姿勢を崩さなかった。
善次郎の暗殺と昭和期の発展
1921年、絶対的な指導者であった安田善次郎が右翼青年に暗殺されるという事件が起こり、トップを失った安田財閥は一時的な危機に直面した。しかし、日本銀行出身の結城豊太郎を大番頭として迎え入れ、大規模な改革を断行した。1923年の大正関東地震(関東大震災)後には、系列下の複数の中小銀行を安田銀行に吸収合併させる大合同を実施し、日本最大規模の普通銀行へと成長させた。この強固な金融基盤により、昭和金融恐慌時にもかえって預金を集め、財閥としての優位性を保ち続けた。
財閥解体と戦後の芙蓉グループ
第二次世界大戦終結後の1945年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による財閥解体の指令を受け、中核であった保善社は解散し、安田一族は企業経営から排除された。中核の安田銀行は1948年に富士銀行(現在のみずほ銀行)と改称し、再出発を図った。その後、日本の高度経済成長期において、富士銀行を中心に旧安田系企業や旧浅野系企業などが結集して芙蓉グループという巨大な企業集団を形成し、戦後の日本経済においても重要な役割を果たし続けた。