遣隋使

重要度
★★★

遣隋使 (けんずいし)

600年 – 614年

【概説】
飛鳥時代に、中国大陸を統一した隋の先進的な政治制度や文化を取り入れるとともに、対等な外交関係を結ぶことを目的として日本(倭国)から派遣された使節。推古天皇の時代に数回にわたって派遣され、日本の古代国家形成に多大な影響を与えた。

東アジア情勢の変動と遣隋使派遣の背景

6世紀末、東アジアの国際情勢は大きな転換点を迎えていた。589年、が南北朝の長い分裂と混乱を収拾して中国大陸を統一し、強大な帝国を築き上げた。一方、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が激しく対立しており、倭国(日本)は半島における政治的・軍事的な影響力を後退させていた。このような緊迫した国際情勢の中、推古天皇や聖徳太子(厩戸王)を中心とするヤマト政権は、東アジアにおける自国の地位を再構築し、中央集権的な国家体制を確立するため、大国である隋の先進的な制度や文化を直接吸収する必要性に迫られていたのである。

第一回遣隋使の挫折と国内改革の連動

『隋書』倭国伝の記述によると、600年に第一回の遣隋使が派遣されたとされる。しかし、この時の使節は外交儀礼や国家体制が未熟であったため、隋の初代皇帝である文帝から「道理に外れている」とその政治のあり方をたしなめられたと伝えられている。この外交的挫折はヤマト政権の首脳陣に強い危機感を与え、国際社会に通用する本格的な国制整備の契機となった。その結果、603年の冠位十二階の制定や、翌604年の十七条の憲法の制定など、身分秩序や官僚制の基礎を築くための内政改革が急ピッチで進められることとなった。遣隋使の派遣は、単なる対外政策にとどまらず、国内の政治改革と強く連動していたのである。

小野妹子の派遣と対等外交の模索

国内の体制整備を進めた上で、607年に第二回の遣隋使として小野妹子が派遣された。この際、小野妹子が持参した国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と記されており、倭国が隋に対して(少なくとも形式上は)対等な関係を求めたことが伺える。この文面に隋の第2代皇帝・煬帝は無礼であると激怒したとされるが、当時隋は北方の強国である高句麗への大規模な遠征を控えており、背後に位置する倭国との関係悪化を避けるという高度な政治的・戦略的判断を下した。その結果、隋は翌年に答礼使として裴世清を日本へ派遣し、倭国は中国の皇帝に臣従する「冊封体制」から一定の距離を置きつつ、国交を結ぶことに成功したのである。

留学生・学問僧の同行とその後の歴史的意義

608年、裴世清の帰国に伴い小野妹子は再び隋へと渡ったが、この時には高向玄理南淵請安などの留学生(るがくしょう)や学問僧が同行した。彼らは長期にわたって大陸に滞在し、隋から唐へと王朝が交替する激動の中国において、最先端の律令制度や仏教教理、文化を深く学んだ。帰国後、彼らはその圧倒的な知識をもって大化の改新(645年〜)以降の政治改革の最高顧問として暗躍し、日本の律令国家建設において決定的な役割を果たすこととなる。

遣隋使は、わずか十数年の間に数回の派遣(回数には諸説あり)にとどまったが、中華帝国に対して主体的な外交姿勢を示し、日本の独自の国家意識を確立する上で極めて重要なステップであった。そして、危険を冒して海を渡り先進文化を直輸入するというこの国家事業の経験は、のちの遣唐使へと引き継がれ、古代日本の政治・文化の発展を強力に推し進める原動力となったのである。

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