山田耕筰 (やまだこうさく)
【概説】
明治から昭和期にかけて活躍した、近代日本を代表する作曲家・指揮者。ヨーロッパで本格的な西洋音楽の作曲法を学び、日本初の交響曲を作曲したほか、日本人独自の歌曲や童謡のジャンルを確立した「日本洋楽界の先駆者」である。
本格的な西洋音楽の受容と日本初の交響曲
明治維新以降、日本政府は学校教育における唱歌や、軍隊における軍楽隊を通じて西洋音楽の導入を進めてきた。しかし、それはあくまで西洋の音楽を模倣・翻訳する段階にとどまっていた。こうした状況のなか、山田耕筰は東京音楽学校(現・東京藝術大学)を卒業後、1910(明治43)年からドイツのベルリン高等音楽学校に留学し、本格的な作曲技法と管弦楽法(オーケストレーション)を体系的に学んだ。
留学中の1912(大正元)年には、日本人の手による史上初の交響曲『かちどきと平和』(交響曲ヘ長調)を作曲した。これは日本人が西洋音楽の高度な語法を完全に咀嚼し、芸術作品として自立した表現を行い得ることを証明した歴史的快挙であった。帰国後、山田は日本初のプロ・オーケストラである東京フィルハーモニー会管弦楽部を組織するなど、日本における管弦楽の普及と演奏水準の向上に多大な貢献を果たした。
「赤い鳥」運動と日本語の美を生かした童謡・歌曲の創造
大正時代、デモクラシーの気運を背景に、子どもたちに本物の芸術や文学を届けようとする「児童文化運動」が興隆した。その先駆けとなったのが、1918(大正7)年に鈴木三重吉が創刊した児童雑誌『赤い鳥』である。山田はこの運動に深く共鳴し、日本の音楽教育における唱歌(お仕着せの教育的な歌)に代わる、子どもたちの情緒を育む「童謡」の創作に力を注いだ。
山田は詩人の北原白秋や三木露風らと緊密に連携し、今なお歌い継がれる数々の名曲を生み出した。代表作には、白秋の詩による「ペチカ」「待ちぼうけ」「この道」、露風の詩による「赤とんぼ」などがある。山田の歌曲における最大の功績は、「日本語の言葉のアクセントと旋律の融合」を徹底して追求した点にある。それまでの日本の歌は、西洋のメロディに日本語を無理やりあてはめたものが多かったが、山田は日本語独自の高低アクセントやイントネーションに自然に寄り添う美しい旋律を創り出し、近代日本歌曲の独自の美学を確立した。
日本の洋楽自立における歴史的意義
山田耕筰の歴史的意義は、単に西洋音楽を日本に移植したことにとどまらず、それを日本の言語や伝統的な感性と融合させ、独自の「国民音楽」として昇華させた点にある。大正から昭和にかけて彼が築いた土台は、日本人が自らのアイデンティティを持った音楽を世界に発信する契機となった。彼の精力的な活動は、後続の日本人作曲家たちに多大な影響を与え、日本のクラシック音楽界の礎となったのである。1956(昭和31)年には、音楽家として初の文化勲章を受章した。