新律綱領 (しんりつこうりょう)
【概説】
明治新政府が1870年(明治3年)に制定した、近代日本における最初の体系的な刑法典。江戸幕府の刑法や中国の伝統的な律(唐律・明律・清律)を色濃く継承し、前近代的な身分制に基づく刑罰体系を残していた点に特徴がある。
東アジア伝統法への回帰と王政復古の理念
明治維新によって発足した新政府は、国内の治安維持と新たな国家秩序の構築のために、統一的な法典の整備を急いだ。しかし、当時の日本には欧米風の近代法体系をすぐに受容・起草するだけの土壌がまだ整っていなかった。そのため、刑部省を中心に編纂された新律綱領は、古代以来の「王政復古」という政府のイデオロギーを反映し、中国の唐律や明律、さらには江戸幕府の判例法である公事方御定書などを基礎として作成された。これは、西洋化を推し進める一方で、法制面においては東アジアの伝統的な律令体系へと先祖返りしたことを意味していた。
身分制の維持と近代法典への過渡期としての意義
新律綱領の大きな特徴は、近代法の原則である「法の下の平等」とは程遠く、厳しい身分制を前提としていた点にある。皇族や華族、士族、平民といった身分によって刑罰に格差が設けられており、士族に対しては名誉刑としての自裁(切腹)を認めるなどの特権が存在した。また、家族内においても儒教的な倫理観に基づき、子から親への犯罪(不孝)は極めて重罪とされた一方、親から子への暴力や殺害は軽く処断されるなど、家父長制的な色彩が非常に強かった。刑罰自体も、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)という東アジア伝統の五刑が採用されていた。
このような前近代的な内容は、欧米列強から「野蛮な法制度」とみなされ、不平等条約の改正(領事裁判権の撤廃)を進める上での大きな足枷となった。このため政府は、1873(明治6)年にフランス法の影響を受けた改定律例を制定して刑罰の緩和を図り、最終的には1880(明治13)年、お雇い外国人のボアソナードの起草による近代的な刑法(旧刑法、1882年施行)の制定へと舵を切ることになる。新律綱領は、日本が旧来の東アジア的法秩序から脱却し、西洋近代法へと移行する過渡期を示す歴史的史料として重要である。