鳥羽・伏見の戦い

1868年1月、京都の南郊外で新政府軍と旧幕府軍が衝突し、1年半に及ぶ戊辰戦争の幕開けとなった戦いは何か?
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鳥羽・伏見の戦い

1868年

【概説】
1868年1月、京都南郊で新政府軍と旧幕府軍が激突し、新政府軍が勝利した戊辰戦争の初戦。
兵力では旧幕府軍が圧倒していたものの、新政府軍の近代兵器や「錦の御旗」の掲揚により戦局が決し、新政府の正統性が確立する決定的な契機となった。

開戦に至る政治的背景

1867年10月の大政奉還によって武力討幕の大義名分を失った討幕派は、同年12月9日に王政復古の大号令を発し、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言した。同日夜に行われた小御所会議において、徳川慶喜に対して内大臣の辞任と領地の返上(辞官納地)が命じられると、旧幕府側の会津藩や桑名藩はこれに激しく反発した。

慶喜は不測の衝突を避けるために京都の二条城から大坂城へ退去したが、新政府側(特に薩摩藩の西郷隆盛)は旧幕府側を挑発するため、江戸で放火や略奪などの後方撹乱工作を命じた。これに激高した旧幕府側が江戸薩摩藩邸の焼討ちを決行すると、大坂の旧幕府軍内でも主戦論が沸騰した。慶喜もついに開戦を黙認せざるを得なくなり、「討薩表」を掲げて京都へ向けて進軍を開始した。

激突と「錦の御旗」の威光

1868年1月27日(慶応4年1月3日)、京都南郊の鳥羽街道および伏見市街において、京都への入京を目指す旧幕府軍と、それを阻止しようとする新政府軍(薩摩・長州・土佐藩兵など)が衝突し、戦闘の火蓋が切られた。兵力は旧幕府軍が約1万5000と、約5000の新政府軍を数の上で圧倒していた。

しかし、新政府軍はイギリスから導入した最新式のミニエー銃やアームストロング砲などの近代洋式兵器を装備しており、狭い街道の地形を活かした戦術で旧幕府軍の進撃を阻んだ。さらに翌日、朝廷から新政府軍に対して、天皇の軍隊であることを示す錦の御旗が授与されると、戦局は一変した。新政府軍が「官軍」となり、対する旧幕府軍が「朝敵」となったことで、旧幕府側の士気は著しく低下したのである。

慶喜の逃亡と旧幕府軍の瓦解

「錦の御旗」の出現は、戦闘の行方だけでなく政治的なパワーバランスをも決定づけた。朝敵となることを恐れた淀藩が城門を閉ざして旧幕府軍の敗残兵の入城を拒み、さらに山崎の関門を守備していた津藩(藤堂家)が新政府軍に寝返って旧幕府軍に砲撃を加えるなど、旧幕府側の離反が相次いだ。

敗色が濃厚となる中、総大将である徳川慶喜は1月30日(1月6日)の夜、自軍を大坂城に残したまま、側近や会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らを伴って軍艦・開陽丸で密かに海路江戸へと逃亡した。総大将を失った旧幕府軍は完全に戦意を喪失して瓦解し、戦いは新政府軍の圧倒的な勝利で幕を閉じた。

戊辰戦争における歴史的意義

鳥羽・伏見の戦いは、その後約1年半にわたって日本全国を巻き込むこととなる戊辰戦争の事実上の初戦であり、新政府の優位を決定づけた極めて重要な出来事である。この戦いで勝利したことにより、新政府は名実ともに日本を統治する正当な政権としての地位を国内外にアピールすることに成功した。

一方、敗れて「朝敵」の烙印を押された徳川慶喜は、江戸に戻ったのち恭順の姿勢を示し、これが後の江戸城無血開城へと繋がっていく。もしこの初戦で大軍を擁する旧幕府軍が京都を制圧し、新政府を瓦解させていれば、明治維新の歴史は大きく異なる道を歩んでいた可能性が高く、日本の近代化への道筋を定めた分水嶺としての意義は計り知れない。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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