明和事件 (めいわじけん)
【概説】
江戸時代中期の1767年(明和4年)に、江戸幕府が尊王論者を弾圧した事件。著書『柳子新論』で幕府政治を批判した学者・山県大弐や藤井右門らが処刑され、宝暦事件と並び、幕末の尊王論の先駆となった。
事件の背景と『柳子新論』の思想
18世紀半ば、江戸幕府の支配体制に徐々に動揺が生じ始めるなか、京都の公家や知識人の間で朝廷を重んじる尊王論(そんのうろん)が台頭した。1758年(宝暦8年)には、京都で公家たちに尊王神道を説いた竹内式部らが処分される宝暦事件が発生していたが、こうした尊王思想の流れは江戸の地にも及んでいた。
甲斐国出身の儒学者・軍学者である山県大弐(やまがただいに)は、江戸で私塾を開き、多くの門人に儒学や兵学を教授していた。大弐は、1759年に著した政治論書『柳子新論』(りゅうししんろん)において、現在の徳川幕府による武家政治を「覇道(武力による支配)」として激しく批判した。彼は、中国の周王朝を模範とし、本来の国家の主権者であるべき「天子(天皇)」を敬い、諸侯(大名)を統制すべきだという独自の尊王論を展開した。この思想は、武家が朝廷から政権を委任されているという幕府の支配原理を根底から揺るがす、極めて先鋭的なものであった。
小幡藩の内紛と事件の発覚
明和事件が勃発する直接の引き金となったのは、上野国(現・群馬県)小幡藩(おばたはん)の藩政改革をめぐる内紛であった。小幡藩の家老であった吉田玄蕃らは、藩政の刷新を図るために江戸で有名であった山県大弐に諮問し、その繋がりから大弐の弟子である小幡藩士たちが改革に関与するようになった。
しかし、改革に反対する保守派の藩士らによって、山県大弐や、彼と交流のあった軍学者・藤井右門(ふじいうもん)らが「幕府に対する謀叛を企てている」との密告がなされた。これにより、1766年(明和3年)末に大弐や右門、さらにはかつて宝暦事件で処分され、当時は大弐のもとに身を寄せていた竹内式部らが幕府によって一斉に逮捕された。
苛烈な処分と幕末への歴史的影響
1767年(明和4年)、勘定奉行らの徹底的な取り調べが行われた。結果として、具体的な謀叛の企て(江戸城襲撃計画など)の証拠は得られなかったものの、著書や言動に不敬・不遜の兆候があるとして、幕府は容赦のない苛烈な処分を下した。山県大弐と藤井右門は死罪(斬首)となり、竹内式部は三宅島への流罪となった(式部は配流の途上で病死)。また、小幡藩主の織田信邦は蟄居を命じられ、織田家は出羽国高畠藩へと強制的に減封・転封される処分を受けた。
この事件が起きた時期は、9代将軍・徳川家重から10代将軍・徳川家治への代替わりの時期であり、のちに老中として権勢を誇る田沼意次が側用人として幕政の実権を握りつつあった過渡期にあたる。幕府は、自らの支配権威を維持するため、儒学や兵学を通じた体制批判を断じて許さないという強硬な姿勢を示したのである。
明和事件は、国家のあり方を天皇中心へと回帰させるべきだという尊王論が、早くも18世紀中葉において体系化され、行動に移され始めていたことを示している。ここで弾圧された山県大弐らの思想やその壮絶な死は、のちに幕末の尊王攘夷運動、特に吉田松陰などの志士たちに強い感銘を与え、明治維新へ至る大きな思想的伏線となった。