第一次護憲運動
【概説】
1912年(大正元年)末から翌年にかけて、第3次桂太郎内閣に対して「閥族打破・憲政擁護」を掲げて起こり、全国的な広がりを見せた大衆的な政治運動。立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが中心となって主導し、新聞などのメディアに喚起された都市民衆の力によって内閣を総辞職に追い込んだ。この一連の動きは、その後の大正デモクラシーの出発点となった。
二個師団増設問題と軍部の横暴
1912年(明治45年)7月、明治天皇の崩御により大正時代が幕を開けた。当時政権を担っていたのは、立憲政友会を与党とする第2次西園寺公望内閣であった。この時期、辛亥革命後の中国情勢の不安定化を背景として、帝国陸軍は朝鮮半島の警備強化を理由に陸軍二個師団増設を強く要求した。
しかし、日露戦争以降の慢性的な財政難を抱えていた西園寺内閣は、行財政整理を優先してこの増設要求を拒否した。これに対して陸軍大臣の上原勇作は、天皇に直接辞表を提出(帷幄上奏)して辞任してしまう。当時の軍部大臣現役武官制のもとでは、軍部が後任の大臣を推挙しなければ内閣は存続できず、結果として西園寺内閣は総辞職を余儀なくされた。この陸軍の制度を悪用した横暴な振る舞いは、国民の間に強い不満と反発を巻き起こすこととなった。
第3次桂太郎内閣の成立と国民の反発
西園寺の後継首相を決める元老会議の結果、長州藩閥であり陸軍出身の桂太郎が次期首相に推挙された(第3次桂太郎内閣)。当時、桂は天皇を側近として支える内大臣兼侍従長の職にあったが、これを辞して首相に就任したことは、宮中(天皇の側近)と府中(政府)の区別を乱す「宮中府中の別」を無視したものとして激しい非難を浴びた。
さらに桂は、天皇の権威を利用して海軍大臣の留任を命じる詔勅(優詔)を出させるなど、政治的困難を天皇の威光によって乗り切ろうとした。桂自身は立憲同志会(のちの憲政会、立憲民政党の源流)という新党を結成して議会政治への軟着陸を図ろうとしていたものの、長年にわたる藩閥政治への不満や、軍部の横暴に対する国民の怒りはすでに頂点に達していた。
「閥族打破・憲政擁護」の激化と大正政変
こうした事態に対し、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが中心となり、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに掲げた憲政擁護運動(第一次護憲運動)が開始された。実業家やジャーナリストもこの運動に賛同し、新聞などのマスメディアが連日内閣を痛烈に批判したことで、運動は瞬く間に全国の都市部へと波及した。
1913年(大正2年)2月、議会が再開されると、数万規模の群衆が国会議事堂周辺を取り囲み、政府寄りの新聞社や交番を焼き討ちするなどの暴動にまで発展した。議会内では尾崎行雄が「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒そうとするもの」と桂内閣の政治姿勢を激しく弾劾した。追い詰められた桂内閣は、組閣からわずか53日で総辞職に追い込まれた。民衆の圧力によって内閣が倒れたこの一連の政治的激動を大正政変と呼ぶ。
第一次護憲運動の歴史的意義と影響
第一次護憲運動は、日本の政治史において極めて画期的な出来事であった。明治時代における政治の変化が、主に元老や藩閥といった一握りの特権的なエリート間の力学によって決定されていたのに対し、この運動では都市の大衆が自発的に政治運動に参加し、直接的な行動によって政府を打倒することに成功したからである。
この成功体験は、国民の間に「自分たちの声で政治を変えられる」という意識を強く植え付けた。第一次護憲運動によって示された民衆の政治参加への熱量は、その後の普通選挙獲得運動や政党内閣制の確立を求める大正デモクラシーという大きな潮流の事実上の出発点となり、近代日本の民主化過程を語る上で欠かせない重要な転換点として評価されている。