罪刑法定主義

1880年公布の刑法で初めて導入された、「いかなる行為が犯罪であり、どのような刑罰を科すかは、あらかじめ法律で定めておかなければならない」という原則を何というか?
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重要度
★★

罪刑法定主義

1880年〜

【概説】
いかなる行為であっても、あらかじめ成文の法律によって犯罪と定められていなければ、処罰されることはないとする近代刑法の基本原則。明治期の近代法典整備の過程で西洋から導入され、国家の恣意的な刑罰権の行使から国民の自由と人権を守る重要な基盤となった。

近代国家への脱皮と「旧刑法」の制定

明治維新を成し遂げた日本にとって、欧米列強との間に結ばれた不平等条約の改正は悲願であった。そのためには、欧米諸国と同等の人権保障や近代的司法制度を備えていることを証明する必要があった。江戸時代までの日本の刑罰体系は、幕府や諸藩の裁量による前近代的なものであり、罪と罰の基準が曖昧であった。そこで明治政府は、お雇い外国人であるフランスの法学者ボアソナードを招聘し、近代刑法の基礎となる法典の編纂に着手した。

その結果、1880(明治13)年に制定(1882年施行)されたのが「刑法」(いわゆる旧刑法)である。この旧刑法において、日本史上初めて罪刑法定主義が明文化された。これにより、どのような行為が犯罪となり、それに対してどのような刑罰が科されるかが成文法によってあらかじめ国民に示されるようになり、国家による身勝手な処罰や類推解釈による処罰が排されることとなった。

大日本帝国憲法における法治主義の確立

罪刑法定主義の原則は、1889(明治22)年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)においても、人身の自由を保障する中核的な法理として組み込まれた。同憲法第23条には「日本臣民ハ法律ニ拠ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と規定され、刑罰を科すためには必ず帝国議会の協賛を経た「法律」の根拠が必要であることが憲法上も明示された。

これにより、行政権や司法権の暴走を抑え、国民の身体の自由を担保する近代的な法治主義(法律の留保)の枠組みが日本に定着することとなった。この原則は、1907(明治40)年に制定された現行の「刑法」(いわゆる新刑法)にも受け継がれ、戦前の司法秩序を支える柱となった。

日本国憲法への継承と現代的意義

第二次世界大戦後、大日本帝国憲法が廃止されて日本国憲法が制定されると、罪刑法定主義の原則はさらに強固な人権保障システムへと発展した。日本国憲法第31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」とし、いわゆる「適正手続(デュー・プロセス)の保障」を規定した。また、第39条では事後法の禁止(実行時に適法であった行為を後から作った法律で処罰することの禁止)が重ねて保障されている。

今日において、罪刑法定主義は単に「法律の条文があること」のみを求めるのではなく、その条文が明確で一般市民に理解できるものであること(明確性の原則)や、類推解釈の禁止といった、より高度な人権擁護の要請を含みながら機能している。

近代刑法の史的展開 (学術選書155)

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罪刑法定主義 新訂第二版

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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