勘合(勘合符)
【概説】
室町時代に行われた日明貿易において、正式な遣明船と密貿易船(倭寇)を厳格に区別するために明朝から発行された割符(証明書)。足利義満が明と国交を樹立した際に導入され、東アジアの冊封体制下における朝貢貿易の重要な統制手段として機能した。
日明貿易の開始と勘合の導入
室町時代前期、東シナ海では日本の商人や海賊による前期倭寇が活動を激化させており、中国を統一した明(洪武帝)は、倭寇の取り締まりを日本側に求めていた。明は私貿易を厳禁する海禁政策をとっており、外国との貿易は、周辺諸国の君主が皇帝へ貢物を捧げ、皇帝がその返礼品を下賜するという形式の朝貢貿易に限定されていた。1401年、室町幕府第3代将軍の足利義満は明へ使者を派遣し、1404年(応永11年)に国交が樹立された(日明貿易の開始)。この際、義満は「日本国王」に封じられ、明の冊封体制に組み込まれた。そして、正式な日本の使節(遣明船)と倭寇などの非公認の船を見分けるための身分証明書として、明から勘合(勘合符)が交付されたのである。これにより、日明貿易は「勘合貿易」とも呼ばれる。
勘合の仕組みと照合方法
勘合は、明の皇帝から日本国王(室町将軍)に対して100通1セットとして与えられた紙製の割符である。明の建文帝の時代には「本字勘合」、永楽帝の時代には「日字勘合」というように、中国の古典である『千字文』から引用された文字が発行時期ごとに割り当てられていた。具体的には、勘合本体と底簿(控えの台帳)にまたがって「本字壱號」「本字弐號」といった通し番号の印章(割印)が押され、日本側には勘合が、明側の指定貿易港であった寧波(ニンポー)などの役所には底簿が保管された。
遣明船が寧波に到着すると、持参した勘合と役所にある底簿を照合し、印の合い口がぴったりと一致すれば正式な朝貢船として入港と貿易が許可された。また、日本側にも底簿が渡されており、明からの使者が日本を訪れる際(兵庫港に入港)にも同様の照合が行われるという、相互に厳密な確認システムが構築されていた。
勘合を巡る権力闘争と寧波の乱
日明貿易は、日本の特産品である銅や硫黄、刀剣などを輸出し、明から生糸や陶磁器、そして大量の明銭(永楽通宝など)を輸入するという、日本側にとって莫大な利益をもたらす事業であった。そのため、貿易の通行証である勘合を誰が握るかは、国内の権力闘争に直結した。応仁の乱以降、幕府の権力が衰退すると、管領の細川氏と、西国の大大名である大内氏が勘合を巡って激しく対立するようになった。
1523年(大永3年)、すでに無効となっていた旧勘合を持った細川氏の船と、正式な新勘合を持った大内氏の船が寧波で同時に入港し、利権を巡って武力衝突する寧波の乱が発生した。この際、明の役人を賄賂で抱き込んだ細川氏が優遇されたことに大内側が激怒し、細川氏の船や明の役所を焼き討ちした。この事件に最終的に勝利した大内氏が、以後の勘合貿易を独占することになる。
勘合貿易の終焉と歴史的意義
大内氏は勘合を独占し、日明貿易を通じて本拠地の山口に独自の文化(大内文化)を築くなど繁栄を極めた。しかし、1551年に当主の大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれ(大寧寺の変)、さらに1557年に大内氏が毛利氏によって滅ぼされると、実質的な勘合の管理者が不在となった。これにより、1547年(天文16年)に派遣された遣明船を最後に、1世紀半にわたった勘合貿易は途絶えた。
勘合の存在は、室町幕府が東アジアにおける国際秩序(華夷秩序)の中に組み込まれ、国家間の公式な枠組みの中で経済的利益を追求していたことを象徴する重要な史料である。また、勘合を通じた公的な貿易統制が崩壊した16世紀後半以降には、勘合を持たない武装商人による後期倭寇が再び東シナ海で猛威を振るうことになり、やがて南蛮貿易や朱印船貿易といった、国家の枠を超えた新たな東アジア海域の交易ネットワークへと歴史が移行していく転換点ともなった。