藤原純友 (ふじわらのすみとも)
【概説】
平安時代中期、瀬戸内海の海賊を率いて朝廷に反旗を翻した貴族出身の豪族。伊予国の国司(掾)として現地に赴任した後、治安維持の対象であった海賊を組織化してその首領となった。関東における平将門の乱と同調するように蜂起し、瀬戸内海から九州大宰府にかけての一帯を震撼させたが、朝廷が派遣した追討使によって鎮圧された。
国司から海賊の首領への転身
藤原純友は、中央貴族である藤原北家の血筋を引いていたが、父の早世などもあって中央政界での出世を阻まれ、地方官である伊予国(現在の愛媛県)の掾(じょう、三等官)として下向した。当時の瀬戸内海は、流通の要衝であると同時に、重税を逃れた浮浪民や在地領主らが海賊化して割拠する治安の悪い地域であった。純友は当初、国司としてこれら海賊の鎮圧にあたっていたが、その過程で在地勢力や海民たちと強固な主従関係を結ぶようになった。任期終了後も京の都に帰還せず、伊予の日振島(ひぶりしま)を拠点に瀬戸内海の海賊たちを組織化し、やがてその巨大な連合体の首領へと君臨することとなった。
承平・天慶の乱と大宰府焼き討ち
939年(天慶2年)、純友は瀬戸内海の制海権を握り、備前や讃岐などの国衙を襲撃して掠奪を行うなど、組織的な反乱を開始した。同時期に関東で勃発した平将門の乱と呼応するかのようなこの動きは、朝廷を大いに震撼させた(この東西の乱を合わせて承平・天慶の乱と呼ぶ)。朝廷は二方面での戦争を避けるため、純友に官位を与えて一時的な懐柔を図ったが、将門が討伐されたことで本格的な純友追討へと舵を切った。これに対抗した純友は九州へ進出し、941年には朝廷の九州支配の拠点である大宰府を襲撃・焼き討ちにするなど、抵抗を激化させた。
動乱の終焉と武士台頭への歴史的意義
大宰府を制圧した純友軍であったが、朝廷が派遣した追討使の小野好古(おののよしふる)や、清和源氏の祖となる源経基(みなもとのつねもと)らの反撃に遭う。博多湾の海戦で大敗を喫した純友は伊予国へ逃げ帰ったが、現地で警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)によって捕らえられ、同年に獄中で没した。この藤原純友の乱は、律令制の解体に伴い地方の治安維持能力を失っていた朝廷に対し、武芸を家業とする「兵(つわもの)」、すなわち初期の武士の力を用いてのみ鎮圧できた事件であった。この結果、朝廷における武士の武事・警察権力が不可欠なものとして認識されるようになり、のちの武家社会の形成に向けた大きな契機となった。