モリソン号事件
【概説】
1837年(天保8年)、日本人漂流民の送還と通商・布教を目的として来航したアメリカの商船モリソン号に対し、江戸幕府が異国船打払令に基づいて砲撃を加え、退去させた事件。この出来事はのちに幕府の対外強硬策への批判を招き、言論弾圧事件である蛮社の獄の契機ともなった。
事件の背景とモリソン号の来航
江戸幕府は1825年(文政8年)に異国船打払令(無二念打払令)を発令し、日本沿岸に接近する外国船を理由の如何を問わず砲撃して追い払うという、極めて強硬な鎖国政策をとっていた。このような状況下、マカオを拠点としていたアメリカの商人チャールズ・W・キングは、海外に漂流していた音吉ら7名の日本人漂流民を保護していた。キングは彼らを祖国へ送還する恩義を通じて日本との通商関係を開き、あわせてキリスト教布教の足がかりを得ようと企図した。この目的のために派遣されたのが、非武装の商船モリソン号である。
幕府による砲撃と退去
1837年(天保8年)、モリソン号は相模国の浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航した。しかし、幕府は同船の事情や来航目的を一切確認することなく、異国船打払令を厳格に適用して砲撃を加えた。浦賀での上陸を断念したモリソン号は、次に薩摩藩の山川港(現在の鹿児島県指宿市)へと向かったが、ここでも薩摩藩兵による激しい砲撃を受けた。非武装であったため反撃することもできず、結局モリソン号は漂流民の送還も通商の目的も果たせないまま、マカオへの帰還を余儀なくされた。このとき帰国を果たせなかった漂流民たちは、のちにイギリス軍の通訳を務めるなど数奇な運命を辿ることになる。
事件の波紋と「蛮社の獄」
事件の翌年、オランダ商館長からのオランダ風説書によって、モリソン号が非武装の商船であり、その来航目的が日本人漂流民の送還であったことが幕府首脳や一部の知識人にもたらされた。この事実を知った蘭学者のグループ「尚歯会(しょうしかい)」の人々は、幕府の無知と非人道的な強硬策に強い危機感を抱いた。三河国田原藩家老の渡辺崋山は『慎機論』を、医師の高野長英は『戊戌夢物語』を密かに著し、世界情勢を無視した幕府の無謀な対外政策を痛烈に批判した。しかし、これらの言論活動は幕府内の保守派であった鳥居耀蔵らの反発を買い、1839年(天保10年)に崋山や長英らが捕らえられて処罰される蛮社の獄を引き起こす結果となった。
歴史的意義:鎖国体制の動揺と政策転換
モリソン号事件とそれに続く蛮社の獄は、幕府の対外政策の硬直性と、世界情勢に対する認識の甘さを明確に浮き彫りにした出来事であった。さらに1840年(天保11年)にアヘン戦争が勃発し、大国である清がイギリスに大敗したという情報がもたらされると、幕府内でも異国船打払令を維持し続けることの危険性が認識されるようになった。その結果、1842年(天保13年)の天保の改革において、老中・水野忠邦は異国船打払令を撤回し、遭難した外国船に対して薪水や食料の補給を認める薪水給与令(天保の薪水給与令)を発布した。モリソン号事件は、日本の「鎖国」体制が崩壊へと向かう過程において、強硬政策から柔軟な対応への転換を促す重要な契機となったのである。