辛亥革命 (しんがいかくめい)
【概説】
1911年(明治44年)に清国の武昌で起きた軍隊の蜂起をきっかけとして、中国全土に波及した民主主義革命。この革命によっておよそ300年続いた清朝が滅亡し、1912年にアジア初の共和政国家である中華民国が誕生した。
武昌蜂起から中華民国の成立へ
1911年(明治44年)10月10日、湖北省の武昌で新軍の兵士たちが蜂起したことを発端に、独立運動が中国全土の各省へ瞬く間に波及した。12月末には亡命先から孫文が帰国し、翌1912年(明治45年)1月1日に南京で中華民国の成立を宣言して臨時大総統に就任した。
その後、革命派は清朝の実力者であった袁世凱と妥協し、袁が臨時大総統に就任することを条件に清帝の退位を要求した。同年2月、宣統帝(溥儀)が退位したことで清朝は滅亡し、アジア初の共和政国家が誕生した。これが世界史的にも大きな意義を持つ辛亥革命の基本的な推移である。
日本政府の警戒と不干渉政策
この隣国における劇的な体制変動に対し、当時の日本政府(第2次西園寺公望内閣)は強い警戒感を抱いた。日本の指導者層は、隣接する巨大な国家に「君主を持たない共和政体」が誕生することが、天皇制国家である日本の国体や思想に悪影響を及ぼすことを恐れたのである。
そのため日本政府は当初、清朝を支援して立憲君主制を維持させようと画策し、山県有朋や桂太郎らを中心に武力干渉の機会をうかがった。しかし、中国における自国の権益維持と貿易の安定を最優先するイギリスなどの欧米列強が不干渉の態度をとったため、同盟国である日本も単独での軍事介入を断念し、列強との協調路線をとらざるを得なかった。
民間アジア主義者たちによる革命支援
政府の警戒的・冷淡な態度とは対照的に、日本の民間においては革命派を熱心に支援する人々が存在した。宮崎滔天や頭山満に代表されるアジア主義者たち、さらには犬養毅などの一部の政治家である。
彼らは、欧米列強の帝国主義的侵略からアジアを防衛するためには、中国の近代化と日中の連帯(日中提携)が不可欠であると考え、革命以前から日本に亡命していた孫文らを手厚く庇護し、資金面や活動面で多大な援助を行った。しかし、こうした民間の理想主義的な連帯の模索は、次第に日本の国家的な大陸進出の野心と衝突し、飲み込まれていくことになる。
満蒙問題の発生と日本史における意義
辛亥革命によって中国大陸が政治的混乱に陥ると、日本国内では日露戦争で獲得した南満洲および内蒙古における特殊権益(いわゆる「満蒙権益」)が脅かされることを危惧し、その防衛と拡大を強硬に主張する声が陸軍を中心に高まった。これが満蒙問題の発生である。
清朝という統一権力が崩壊した隙を突き、自国の権益を確固たるものにしようとする帝国主義的な野心は、やがて第一次世界大戦の勃発に乗じた1915年(大正4年)の「二十一カ条の要求」へと直結していく。日本史の文脈において辛亥革命は、日本の対中政策が本格的な領土・権益の拡大へと舵を切り、のちの凄惨な日中戦争へと至る長い対立の端緒となった極めて重要な歴史的転換点と評価できる。