奈良原繁 (ならはらしげる)
【概説】
幕末の薩摩藩士であり、明治期に長期にわたって沖縄県知事を務めた官僚・政治家。沖縄県政において「琉球王」と称されるほどの強権体制を敷き、旧慣温存政策と急進的な近代化を並行して推進した。その過程で、謝花昇らが率いる沖縄の民権運動(県政改革運動)を徹底的に弾圧したことで知られる。
幕末の動乱から明治の官界へ
天保5(1834)年、薩摩藩士の家に生まれた奈良原繁は、幕末の政局で島津久光の側近として活躍した。文久2(1862)年の薩摩藩尊皇攘夷派の粛清事件である寺田屋事件に関与したほか、同年の生麦事件では英国人リチャードソンを斬り下ろした当事者とされている。維新後は新政府に出仕し、静岡県令や日本鉄道社長などを経て、明治中期の地方行政において頭角を現していった。
沖縄県政における「琉球王」としての強権支配
1892(明治25)年、第4代沖縄県知事に就任した奈良原は、1908(明治41)年までの16年間に及ぶ異例の長期政権を築いた。当時の明治政府は、沖縄独自の旧体制をあえて残す旧慣温存政策をとっていたが、奈良原はこの方針のもとで、国権重視の強力な同化政策を断行した。地租改正を沖縄でも実施(沖縄県地租改正)して土地所有権を確立させ、教育や糖業の振興など近代化の基礎を築いたが、その手法は極めて専制的であり、県民からは「琉球王」あるいは「黒鉄(くろがね)知事」と恐れられた。
謝花昇ら民権派との激しい対立
奈良原の強権政治に対し、沖縄初の県費留学生として東京農林学校(現・東京大学農学部)を卒業した謝花昇らは、県民の権利拡大や参政権の獲得、さらには地方自治の確立を求めて「沖縄県政改革運動(沖縄民権運動)」を展開した。これに対し、奈良原は県政批判を行う謝花らを激しく弾圧。謝花が率いる運動母体を圧迫して解散に追い込み、彼らを公職や社会的な地位から徹底的に排除した。この妥協のない弾圧によって謝花は精神的に追い詰められ、早逝することとなる。奈良原の強権農政と民権運動の弾圧は、沖縄における近代民主主義の発展を遅らせる要因となった一方で、本土並みの制度整備(旧慣温存の撤廃)を加速させる契機ともなった。