沖縄倶楽部 (おきなわくらぶ)
【概説】
明治時代後期の沖縄県において、県知事の専制政治に対抗して結成された政治結社。沖縄初の県費留学生であった謝花昇らが中心となり、参政権の獲得や地方自治の実現、地租改正の公正な実施などを目指したが、県当局の激しい弾圧により短期間で解散に追い込まれた。
奈良原知事の専制と沖縄倶楽部の結成
琉球処分後の沖縄県では、本土並みの近代化や制度改革を意図的に遅らせる旧慣温存政策がとられていた。1892年(明治25年)に赴任した薩摩出身の県知事・奈良原繁は、旧特権階級(頑固党・旧御冠船派)と結びつき、強権的で専制的な県政を展開した。これに対し、沖縄初の県費留学生として東京帝国大学農科大学を卒業し、帰郷後に県技師として土地整理事業などに携わっていた謝花昇らは、県政の民主化と沖縄の近代化を求めて奈良原知事と対立を深めていった。1898年に謝花が県庁を辞職すると、翌1899年(明治32年)、奈良原知事の専制に反対し、沖縄における参政権の獲得、土地整理事業に伴う地租改正の公正な実施、地方自治の確立などを掲げて沖縄倶楽部を結成した。彼らは機関紙として『沖縄時論』を創刊し、言論を通じた沖縄における自由民権運動を展開した。
弾圧による挫折と運動の歴史的意義
沖縄倶楽部の活動は、旧慣温存のもとで抑圧されていた県民の広範な支持を集めた。しかし、これに対して奈良原知事および県当局は徹底的な弾圧を加えた。県庁や警察、さらには地主層や親政府・親知事派の勢力を動員して運動への激しい妨害を行い、機関紙への圧迫や会員への懐柔・脅迫を進めた。この結果、資金難や組織の分裂に追い込まれた沖縄倶楽部は、結成からわずか1年足らずの1900年(明治33年)に解散を余儀なくされた。指導者であった謝花昇は運動の挫折による心労から精神を病み、再起することなく40代の若さで急逝した。しかし、沖縄倶楽部による一連の抵抗は、本土に比べて著しく遅れていた沖縄の権利獲得運動(国政参加運動)の先駆的な試みであり、大正期の沖縄における衆議院議員選挙法の施行(1912年)や地方自治制度の導入へとつながる重要な歴史的足跡となった。