謝花昇 (じゃはなのぼる)
【概説】
明治時代の沖縄において、近代化と民権獲得を求めて立ち上がった自由民権運動の指導者。沖縄県出身者として初の農学士となり県庁で農政改革に携わったが、後に知事の専制を批判して下野し、参政権獲得運動を牽引した。
沖縄初の県費留学生と農政改革への志
謝花昇は1865年、琉球王国の東風平(こちんだ)間切の農家に生まれた。明治政府による琉球処分を経て沖縄県が設置された後、1882年に第1回県費留学生に選ばれて上京した。東京山林学校(のちの東京農林学校)で近代農学を修め、1890年に沖縄県出身者初の学士(農学士)となった。帰郷後は沖縄県技師として県庁に奉職し、農業の近代化や杣山(そまやま、共同森林)の整理などの農政改革に情熱を傾けた。
奈良原知事との対立と「沖縄倶楽部」の結成
当時の沖縄県政は、薩摩藩出身の奈良原繁知事による強権的な支配下にあった。政府は沖縄の急激な本土化を避け、旧来の支配体制を利用する旧慣温存策を維持していたが、これは奈良原知事一派による権力独占と県民の抑圧を招いていた。謝花は農政改革の方向性を巡って奈良原知事と鋭く対立し、1898年に県庁を辞職。翌 1899年、賛同者らとともに沖縄倶楽部を結成し、機関誌『沖縄時論』を発刊して言論による本格的な抵抗運動を開始した。
参政権獲得運動の展開と挫折
謝花らの運動は、本土の自由民権運動の流れを汲みつつも、沖縄独自の差別的状況の打破を目指すものであった。彼らは、沖縄県民への衆議院議員参政権の付与、地方自治の確立、地租改正の適正化などを要求した。しかし、奈良原知事側は警察権力を用いた執拗な妨害や、運動幹部への切り崩し(買収・脅迫)を行い、地主や商人層を運動から離反させた。これにより沖縄倶楽部は分裂し、資金難も重なって活動は急速に衰退した。運動の挫折によって精神的な打撃を受けた謝花は、上京の途上で発狂し、失意のうちに43歳で病死した。彼の志は、のちの1912年における沖縄への衆議院議員選挙法適用などの結実へと歴史的につながっていくこととなる。