重要度
★★★

(わ)

紀元前1世紀頃 – 7世紀後半

【概説】
中国の歴史書などにおいて、古代の日本列島やそこに住む人々、あるいは国家群を指して用いられた呼称。
紀元前1世紀の『漢書』地理志から7世紀の『旧唐書』にかけての中国正史にたびたび登場し、文献史料を持たなかった初期の日本社会や東アジア情勢を知るための極めて重要な手がかりとなっている。7世紀後半に国号が「日本」へと変更されるまで、対外的な他称および自称として長らく用いられた。

中国史書における「倭」の初出と百余国

「倭」という呼称が中国の文献に初めて登場するのは、紀元前1世紀頃の状況を記した『漢書』地理志である。そこには「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以て来たり献見すという」と記されており、弥生時代中期の日本列島に多数の小国が分立し、朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡を通じて前漢と定期的に交渉を持っていたことが伺える。「倭」という漢字自体には「従順な」あるいは「背の曲がった小柄な」といった意味が含まれるとされ、当時の中国王朝が中華思想(華夷思想)に基づき、東方の周辺民族に対して名付けた卑称であったと考えられている。

奴国の朝貢と「倭奴国王」の金印

紀元1世紀に入ると、倭の社会はさらなる統合へと向かい、中国王朝との政治的関係も深まる。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元2年(57年)に倭の奴国が後漢の光武帝に朝貢し、印綬を授けられたという。江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は、この時のものと目されている。さらに同書には、107年に倭国王帥升らが後漢の安帝に生口(奴隷)160人を献上したことも記されている。これらの事実は、倭の小国群がある程度の連合体を形成し、中国の冊封体制に組み込まれることで国内における自らの政治的権威を高めようとしていたことを示している。

邪馬台国と「親魏倭王」卑弥呼

2世紀後半になると、倭国では大規模な内乱(倭国大乱)が発生したが、これを収束させたのが邪馬台国の女王・卑弥呼であった。『三国志』魏書東夷伝倭人条(いわゆる『魏志』倭人伝)には、3世紀の倭社会の様子が詳細に記録されている。239年、卑弥呼は魏に遣使して「親魏倭王」の称号と金印紫綬を与えられた。これは当時の中国が三国時代の争乱期にあり、魏が敵対する呉や遼東の公孫氏を牽制するために、背後にある倭の朝貢を厚遇したという国際情勢が背景にある。この時期の「倭」は、邪馬台国を中心とする約30国の連合体としての性質を帯びていた。

倭の五王と東アジア国際情勢

4世紀後半から5世紀にかけて、中国が南北朝時代に突入すると、『宋書』倭国伝に「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる倭国の王たちが南朝に遣使した記録が現れる。特に倭王武(雄略天皇に比定される)は、478年に宋の順帝に上表文を送り、「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」という称号を認められた。これは、高句麗の南下政策を背景に百済や新羅が激しく対立する朝鮮半島において、自国の政治的・軍事的優位性を中国王朝の権威を借りて国際的に承認させようとするヤマト王権の巧みな外交戦略であった。

国号「日本」への移行と「倭」の終焉

7世紀に入ると、推古天皇の時代に派遣された遣隋使の国書において「日出づる処の天子」と称するなど、中華帝国に対する従属的な「倭」の立場から脱し、対等な外交関係を模索する動きが見られるようになる。その後、大化の改新や白村江の戦い(663年)の敗戦を経て、国内の集権化と律令国家としての歩みを急激に進める中、7世紀後半の天武・持統天皇の時代に、国号を「倭」から「日本」へと改めた。『旧唐書』には、日本が「倭」という名を嫌って改めたとする記述などがみられる。これをもって、古代東アジアにおいて長らく用いられた「倭」という呼称は公式な外交の舞台から姿を消し、自立した新たな国家体制への移行を象徴することとなった。

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