大学校 (だいがっこう)
1869年
【概説】
明治初期に幕府旧設の昌平坂学問所、開成所、医学所の3校を統合して設立された、教育行政と最高学府を兼ねた機関。新政府における近代教育制度の出発点となったが、内部の思想対立により短期間で廃止に追い込まれた。
幕府機関の統合と教育行政の集権化
明治新政府は発足後、旧江戸幕府が管轄していた昌平坂学問所(昌平黌)、開成所、医学所を接収し、それぞれ昌平学校、開成学校、医学校として復興させた。そして1869年(明治2年)6月、これら3校を統合して大学校(同年12月に大学と改称)を創設した。
大学校は、儒学・国学を講じる昌平校を「本校」、洋学を講じる開成校を「南校」、医学を講じる医学校を「東校」と位置づけた。これは単なる高等教育機関の誕生にとどまらず、全国の学校や教育行政、さらには学術出版の検閲までも一元的に管轄する、現代の文部科学省のような国家官庁としての役割を兼ね備えていた点に大きな特徴がある。
学派対立による挫折と文部省への転換
しかし、統合された内部では、学問のあり方をめぐって激しい主導権争いが発生した。新政府の神道国教化政策を背景に保守的なナショナリズムを主張する国学・儒学派(本校)と、近代化を急ぎ西洋の科学技術導入を主張する洋学派(南校・東校)が激しく対立したのである。
この学弊と呼ばれる深刻な対立により、大学校は教育機関としての機能を十分に果たすことができなくなった。事態を重く見た政府は、1870年(明治3年)に大学本校(昌平校)を閉鎖。翌1871年(明治4年)には大学そのものを廃止し、新たに教育行政を専任で司る文部省を設置した。この組織改編を経て、残された南校と東校がのちの東京大学へと発展していくこととなる。