支石墓(ドルメン)

重要度
★★

支石墓 (弥生時代前期)

【概説】
地上に配置された数個の支石の上に、巨大な天井石(上石)を載せた、弥生時代前期特有の墓制。朝鮮半島南部から九州北部地方に伝わった外来の埋葬様式である。日本における本格的な農耕社会の成立期において、大陸との密接な交流や集団内における社会階層化の始まりを示す考古学的な指標として極めて重要視される。

朝鮮半島からの技術伝播と巨石遺構の構造

支石墓は世界的には「ドルメン」とも呼ばれる巨石記念物(メガリス)の一種であり、特に東アジアの朝鮮半島において圧倒的な分布を見せる。日本列島へは、弥生時代早期から前期にかけて、水田稲作農耕や金属器の伝来とほぼ同時に、朝鮮半島南部(無文土器文化)から九州北部地方へと伝播した。

その基本的な構造は、地下に掘った墓穴(土壙)の中に死者を埋葬し、その周囲や上部に数個の比較的小さな「支石」を配し、さらにその上に数十キログラムから数トンに及ぶ巨大な「天井石(上石)」を水平に載せるものである。日本に伝わった様式は、朝鮮半島南部で主流であった、石の高さが低く碁盤のように見える南方式(碁盤式)支石墓が主である。土壙の内部には、木棺や、土器を合わせた甕棺(初期の甕棺墓)が納められることもあった。

共同体墓地における位置づけと「集団のリーダー」像

支石墓は、縄文時代の採集経済から弥生時代の農耕社会へと移行する過渡期に多く営まれた。代表的な遺跡として、佐賀県唐津市の宇木汲田(うきくんでん)遺跡や、福岡県糸島市の新町(しんまち)遺跡、長崎県平戸市の里田原遺跡などが挙げられる。

これらの遺跡における支石墓の最大の特徴は、単独で存在するのではなく、一般成員の墓である土壙墓や木棺墓、甕棺墓などと同一の「共同墓地(集団墓)」の中に混在して造られている点である。この配置は、支石墓に葬られた人物が後世の「古墳」の被葬者のような絶対的権力者(王)ではなく、あくまで共同体を代表する長老や祭祀のリーダー、あるいは渡来系集団の出自を持つ有力者であったことを示唆している。多くの人力を要する巨大な天井石の運搬・設置が行われた事実は、被葬者のために共同体全体の協働作業が行われるほどの組織や社会秩序が形成されつつあったことを証明している。

副葬品が示す大陸との外交と社会階層化への歩み

支石墓の中からは、磨製石剣、磨製石鏃、また赤色に美しく塗られた朝鮮系の無文土器などの副葬品が出土することが多い。これらは、当時の朝鮮半島における最新の流行やステータスを反映したものであり、被葬者が対馬海峡を越えた大陸・半島との交易や外交ルートを掌握していた人物であったことを示している。

やがて弥生時代中期に達すると、稲作農耕の定着による余剰生産物の蓄積と、青銅器・鉄器などの金属器の本格的な普及に伴い、社会の階層化とクニの形成が一段と加速する。これに伴い、人々の墓制はさらに大型化した甕棺墓や、地域の首長を祀る墳丘墓(代表例:吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓など)へと移行し、支石墓は急速に姿を消していった。支石墓は、日本列島が平等の縄文社会から階級社会へと歩み出す「最初の一歩」を今に伝える重要な歴史遺産なのである。

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