方墳 (ほうふん)
【概説】
平面が四角形(方形)の形状に整えられた、日本の古墳を代表する基本墳形の一つ。古墳時代の出現期から終末期(飛鳥時代)にいたるまで全国で築造され、特に古墳時代の終末期には大王や有力豪族の墓として大型化・精緻化が図られた。
古墳時代前期・中期における方墳の役割と階層性
古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)から、方墳は円墳とともに日本各地で築造されていた。この時期の古墳の階層秩序において、政権の中心的な同盟関係を示す頂点に位置したのは前方後円墳であった。これに対し、方墳や円墳は、前方後円墳を築造することを許されない臣下や、特定の地域首長、あるいは有力な家族の墓として用いられることが多かった。
しかし、方墳が単なる低位の墳形であったわけではない。地域によってはあえて前方後円墳を選ばず、方墳を選択することでヤマト政権に対して独自の政治的立場を示したケースもあり、規模や副葬品においては一部の前方後円墳を凌駕する方墳も存在する。このように、方墳は当時の政治的階層を示す指標でありながら、地域的な自立性を示す役割も担っていた。
終末期における方墳の大型化と蘇我氏の台頭
6世紀末から7世紀にかけての古墳時代終末期(飛鳥時代)に入ると、それまでヤマト政権の身分秩序を象徴していた前方後円墳の築造が一斉に停止される。これに代わって、畿内を中心とした中央政治の舞台で脚光を浴びたのが、精緻に設計された大型方墳である。この変化は、従来の首長同盟から中央集権的な律令国家へと移行する政治構造の変化と密接に連動していた。
特にこの時期の大型方墳の代表例とされるのが、奈良県明日香村にある石舞台古墳(蘇我馬子の墓と推測される)や、用明天皇陵とされる春日向山古墳、推古天皇陵とされる山田高塚古墳などである。これらは二段や三段に土を積み上げた「段築」構造を持ち、内部には巨大な石材を用いた横穴式石室が造られた。この背景には、当時朝廷の実権を掌握していた有力豪族・蘇我氏の強い影響力があり、彼らの一族が好んで方墳を造営したことから、終末期の大型方墳は蘇我氏の権力の象徴とも見なされている。
東アジアの思想的影響と八角墳への過渡期
終末期に方墳が重視された背景には、大陸(隋や唐)からの文化的・思想的影響も指摘されている。古代中国の宇宙観である「天円地方」(天は丸く、地は四角い)という思想において、地上を治める皇帝の陵墓は方形に造られた。これに倣い、日本でも大王(天皇)や独自の権威を誇示しようとした豪族が、中国的な正統性を主張するために方形のデザインを積極的に採用したと考えられている。
その後、7世紀半ばの「大化の改新(乙巳の変)」を経て蘇我氏が没落し、天皇家への権力集中が進むと、大王の葬制は方墳からさらに高位とされる八角墳(天下八方を治める統治者の象徴)へと移行していく。したがって、終末期に見られた大型方墳の流行は、前方後円墳に象徴される連合政権時代から、八角墳に象徴される専制的な律令君主へと君主権が強化されていく過渡期のモニュメントであったと位置づけられる。