征韓党 (せいかんとう)
1874年
【概説】
明治初期の佐賀県において、江藤新平を首領として結成された不平士族の政治結社。明治六年の政変で下野した江藤を擁し、最初期の士族反乱である佐賀の乱において反乱の主力を担った組織。
明治六年の政変と征韓党の結成
1873年(明治6年)の明治六年の政変において、朝鮮出兵をめぐる「征韓論」に敗れた参議の江藤新平らは下野し、野に下った。翌1874年1月、江藤は愛国公党の設立に関与して「民撰議院設立建白書」を提出したものの、同調者たちを残して急ぎ郷里の佐賀へと帰還した。当時、佐賀の旧士族層は、秩禄処分や廃刀令などの急速な近代化政策によって特権を奪われ、政府への不満を極限まで募らせていた。江藤はこれら不平士族のうち、武力による対外進出を主張して士族の救済を求めたグループを組織化し、自らを首領とする征韓党を結成した。
佐賀の乱と征韓党の終焉
当時の佐賀には、征韓党のほかにも、封建制の復活や天皇親政を掲げる島義勇らの憂国党が存在していた。思想的な相違はあったものの、反政府という一点で両党は手を結び、1874年2月に佐賀の乱を引き起こした。征韓党は県庁を襲撃するなどして一時優勢に立ったが、内務卿の大久保利通が迅速に率いた政府軍の圧倒的な軍事力と近代兵器の前に敗北した。敗走した江藤は他県での再起を図るも捕らえられ、裁判を経て即座に処刑(梟首)された。首領を失った征韓党は壊滅し、政府による中央集権化の推進と士族反乱の厳罰化を印象づける結果となった。