江藤新平 (えとうしんぺい)
【概説】
肥前国(佐賀藩)出身の幕末・明治初期の政治家。明治新政府において初代司法卿を務め、近代的な司法制度や法典の整備に尽力した。しかし、明治六年の政変で下野したのちに佐賀の乱を起こして敗れ、刑死した。
佐賀藩の俊才から新政府の要職へ
江藤新平は、肥前国佐賀藩の貧しい下級武士の家に生まれた。藩校・弘道館で優秀な成績を収めたのち、幕末期の激動の中で脱藩して京都で尊王攘夷運動に身を投じたが、帰藩後に謹慎処分を受けた。しかし、王政復古によって明治新政府が樹立されると、その才覚を見込まれて新政府に徴用される。戊辰戦争の最中には、大木喬任とともに江戸を東京と改めて事実上の首都とする「江戸遷都」を建白するなど、卓抜した先見性と企画力を発揮して頭角を現していった。
初代司法卿と近代法制の基礎構築
明治新政府において制度事務局判事や文部大輔などを歴任したのち、1872年(明治5年)に初代司法卿に就任した。江藤は「日本近代法の父」と称されるように、フランス法を模範とした近代的な民法典の編纂や、司法制度の整備に並々ならぬ情熱を注いだ。
近代国家に不可欠な司法権の独立を強く唱え、全国への裁判所の設置、検察・警察制度の確立を猛烈な速度で推進した。また、身分制の撤廃や人身売買の禁止(娼妓解放令など)といった進歩的な政策を次々と打ち出した。しかし、法による厳格な統治を求める江藤の姿勢は、予算を握る大蔵省(井上馨ら)や、藩閥の情実を重んじる他の政府高官との間に激しい摩擦を生むこととなった。
明治六年の政変と自由民権運動への参画
1873年(明治6年)、江藤は参議に就任して国政の中枢に参画する。しかし当時の政府内では、朝鮮への使節派遣を巡る征韓論争が沸騰していた。江藤は、西郷隆盛や板垣退助、同郷の副島種臣らとともに遣使を強硬に主張した。しかし、岩倉使節団から帰国した大久保利通や木戸孝允ら「内治優先派」の政治工作によってこの主張は退けられ、敗れた江藤らは西郷らとともに一斉に職を辞して下野した(明治六年の政変)。
政府を去った江藤は翌1874年(明治7年)1月、板垣退助らとともに愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書に署名した。これは、一部の有司(官僚)による専制政治を批判し、国民の意見を反映させる議会の開設を求めたものであり、のちの自由民権運動の端緒となる歴史的な出来事であった。
佐賀の乱と悲劇的な最期
建白書提出の直後、江藤は郷里の佐賀で不平士族が蜂起の構えを見せていることを知り、これを鎮撫する目的で帰郷した。しかし、血気にはやる士族たちの不満を抑えることはできず、結果的に彼らに推戴される形で反乱軍の首魁となってしまった(佐賀の乱)。
政府軍の圧倒的な武力の前に敗北を悟った江藤は、薩摩の西郷隆盛や土佐の林有造らに決起を促すため逃亡したが、皮肉にも自らが司法卿時代に制定した「写真手配制度」によって鹿児島で捕縛された。その後、大久保利通が主導して佐賀に設けられた臨時の特設裁判において、まともな弁明の機会も与えられないまま、極刑である梟首(さらし首)に処された。日本の近代法の理念を誰よりも追求した江藤が、政敵による私刑に近い前近代的な裁判で命を落としたことは、明治初期における権力闘争の苛烈さを象徴している。