アンナン
【概説】
現在のベトナム中部(歴史的には特に広南阮氏政権の支配領域)を指す東南アジアの地域名。江戸時代初期に展開された朱印船貿易において、日本からの主要な渡航先として繁栄した交易地。
「安南」の呼称と近世ベトナムの政情
安南(アンナン)という地名は、かつて中国の唐王朝がベトナム北部に置いた「安南都護府」に由来する。日本においては、中世から近世にかけてベトナム地域全体、あるいは特定の政権を指す言葉として用いられた。当時のベトナムは、北部の鄭(チン)氏政権(東京:トンキン)と、中南部の阮(グエン)氏政権(広南:クアンナム)が対立して南北に分裂しており、日本はこれら双方の政権と交易を行っていたが、特に朱印船の主要な往来先となったのは南部の阮氏政権が支配する領域(広南安南)であった。
朱印船貿易の展開と輸入品目
徳川家康が創始した朱印船貿易において、安南は高砂(台湾)やシャム(タイ)、ルソン(フィリピン)などと並び、最も朱印船が派遣された地域の一つであった。日本からは主要な輸出品として銀や銅、硫黄、刀剣などが持ち込まれ、安南からは中国産の高品質な生糸や絹織物、薬草、そして日本国内で茶の湯や香道に用いられた高級香木の伽羅(きゃら)などが輸入された。当時、中国の明王朝が日本に対して商船の来航を禁止する「海禁」政策をとっていたため、安南は実質的に中国産生糸を日本が入手するための重要な中継貿易地としての役割を果たしていた。
ホイアンの日本人町と交易の終焉
安南における最大の貿易港であったフェイフォ(現在のホイアン)には、多くの日本人商人が移住し、独自の自治組織を持つ日本人町が形成された。角倉了以や茶屋四郎次郎といった豪商の朱印船が頻繁に往来し、現地政権との緊密な外交関係が維持された。しかし、寛永期に入り江戸幕府が段階的に海外渡航を制限し、1635年に日本人の海外渡航・帰国の全面禁止(いわゆる鎖国政策の本格化)を断行すると、朱印船貿易は終焉を迎えた。安南に残された日本人町は徐々に衰退し、やがて中国(清)やオランダの商人に主導権が移っていったが、ホイアンに現存する「来遠橋(日本橋)」などは、往時の活発な日越交流の歴史を今に伝えている。