カンボジア
【概説】
東南アジアのインドシナ半島南部に位置する地域。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて展開された朱印船貿易における主要な渡航先の一つであり、現地には日本人街が形成され、活発な対外交易が行われた。
朱印船貿易におけるカンボジアの位置づけ
16世紀末から17世紀前半にかけて、豊臣秀吉や徳川家康は海外交易を統制・推奨するために朱印船貿易の制度を整えた。幕府から公認の渡航証である「朱印状」を交付された船は、東南アジア各地の港市へと向かった。その中でもカンボジア(当時はウドンを首都とするカンボジア王国)は、安南(ベトナム北部)や高砂(台湾)、ルソン(フィリピン)などと並び、日本にとって極めて重要な交易相手国であった。
江戸幕府が開かれてから寛永の鎖国令に至る約30年間に、カンボジア宛ての朱印状は40数枚が発給された。カンボジア王室は、隣国であるシャム(タイ)やベトナムなどの脅威に対抗するため、日本との友好関係や武器・軍事援助を期待し、朱印船を歓迎した。将軍家や幕府閣僚とカンボジア国王との間では、貿易の安全確保や進物をめぐる外交書状(国書)の往復が頻繁に行われていた。
日本人街の形成と「祇園精舎」への憧憬
カンボジアへの日本人の往来が活発化すると、メコン川流域のピニャールーやプノンペンなどに日本人街(日本町)が形成された。ここには朱印船の乗組員や商人だけでなく、国内のキリシタン弾圧を逃れて日本を脱出したキリスト教徒や、戦国時代の終焉により職を失って東南アジアへ渡った日本の牢人(傭兵)たちが居住していた。カンボジアの日本人街は、最盛期には数百人規模に達し、現地の王室の警護や王位継承をめぐる内乱において傭兵として活躍した記録も残されている。
また、当時の日本人の世界観や信仰を示すエピソードとして、世界遺産として名高いアンコール・ワットへの参詣が挙げられる。当時の渡航者たちは、ジャングルの中に佇む壮大な石造寺院群を、仏教の聖地であるインドの「祇園精舎」であると誤認していた。1632年(寛永9年)に現地を訪れた武士・森本右近太夫(一房)が、亡き父の供養のためにアンコール・ワットの柱に書き残した墨書は、近世日本人のアジア認識や精神世界を象徴する極めて具体的な史料として現在も現地に残されている。
交易品がもたらした日本近世文化への影響
カンボジアとの貿易において、日本からは銀、銅、鉄、漆器などが輸出された。これに対し、カンボジアからは鹿皮(武具の甲冑や裏革に使用)、鮫皮(日本刀の柄を巻くために使用)、蘇木(赤色の染料)、香木(伽羅など)が輸入された。特に鹿皮や鮫皮などの皮革類は、戦国時代から江戸初期にかけての武家文化や軍備を物質的に支える不可欠な資源であった。
さらに、日本の食卓に欠かせない野菜である「カボチャ」も、カンボジアとの交易がもたらした代表的な副産物である。16世紀半ば以降にポルトガル船などによってカンボジアから日本(九州)へ持ち込まれた瓜が、「カンボジア」という地名から転訛して「カボチャ」と呼ばれるようになったと広く伝えられている。このように、江戸初期のカンボジアとの通交は、政治・経済的な側面に留まらず、日本の生活文化の形成にも大きな足跡を残したのである。