ヨーロッパ経済共同体(EEC)
【概説】
1957年のローマ条約に基づき、西ドイツやフランスなど西欧6カ国によって1958年に発足した経済統合組織。域内における関税の段階的撤廃や共通通商政策の策定を通じて、国境を越えた単一の共同市場形成を目指した。日本史の文脈においては、昭和中期の高度経済成長期における日本の国際社会復帰、および対欧輸出交渉や貿易摩擦を理解する上で重要な多国間協調の指標である。
EECの誕生と西ヨーロッパの経済統合
第二次世界大戦後のヨーロッパでは、戦禍からの復興と将来の戦争防止(特に仏独の和解)を目指し、超国家的な統合運動が急速に進展した。1952年に発足したヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の成功を契機として、1957年にフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6カ国がローマ条約に調印。翌1958年にヨーロッパ経済共同体(EEC)が正式に発足した。
EECの主な目的は、加盟国間における関税および貿易制限の段階的撤廃、共通対外関税の導入、そして労働力・資本・サービスの移動の自由化であった。この高度な経済統合は西欧諸国に「奇跡」とも呼ばれる経済成長をもたらし、世界経済におけるアメリカに次ぐ一大勢力として台頭することとなった。のちにEECは、1967年に他の共同体と統合されてヨーロッパ共同体(EC)となり、1993年のマーストリヒト条約発効によるヨーロッパ連合(EU)の誕生へとつながっていく。
高度経済成長期の日本と対欧輸出交渉
EECの発足と市場統合の進展は、1955年以降に高度経済成長へと突入し、輸出主導型の産業構造を構築しつつあった日本にとって極めて重要な意味を持った。当時の日本は、1955年に関税および貿易に関する一般協定(GATT)への加盟を果たしたものの、イギリスやフランスをはじめとする西欧諸国は、安価な日本製品(当時は主に繊維製品や雑貨類)の流入を極度に警戒し、GATT第35条(対日差別条項)を適用して日本に対する輸入制限を維持し続けた。
これに対し、日本政府および経済界は、自由貿易体制の恩恵を享受すべく、対欧輸出差別措置の撤廃を強く働きかけた。1960年代初頭、池田勇人内閣は自ら「所得倍増計画」を掲げると同時に積極的な経済外交を展開。1962年の池田首相の訪欧を契機として、英仏などとの間でGATT第35条適用の撤廃交渉が本格化し、順次差別措置が撤廃された。これにより、日本のテレビ、二輪車、そしてのちには自動車などの高度工業製品が、発展を続けるEEC市場へと進出する足がかりを得ることとなった。
「日欧経済摩擦」の勃発と多角化する日本外交
1960年代後半に日本が資本の自由化や「GATT11条国」(国際収支を理由とした輸入制限ができない国)への移行を果たすと、EEC(のちのEC)加盟国への輸出はさらに急増した。特に1970年代の石油危機(オイルショック)を乗り越えた日本の低燃費車や、高性能な工作機械、カラーテレビなどの電子機器は圧倒的な競争力を持ち、欧州市場を席巻した。この急速な輸出拡大は、西欧諸国内の製造業に深刻な打撃を与え、激しい日欧貿易摩擦を引き起こすにいたった。
西欧諸国は、日本の国内市場が排他的かつ不透明である(非関税障壁が存在する)と批判し、日本側に輸出自主規制を厳しく要求した。日本にとってEEC(EC)は、最大の同盟国であるアメリカ一辺倒の貿易・外交構造から脱却し、多角的な国際協調関係(日・米・欧の三極構造)を構築するための重要なパートナーであった。そのため、日本政府や企業は単なる輸出抑制にとどまらず、欧州現地への工場進出(直接投資)を進めることで現地の雇用創出に貢献するなど、協調的な解決を模索した。このように、昭和後期における日本の通商政策と多角化外交は、EECという巨大な経済ブロックの存在を常に意識し、対峙する中で形作られていったのである。