島義勇 (しまよしたけ)
1815年〜1874年
【概説】
幕末の佐賀(肥前)藩士であり、明治初期に開拓判官や秋田県権令を歴任した政治家。北海道の開拓初期において札幌の都市計画の基礎を築いたが、のちに江藤新平らとともに佐賀の乱を起こして処刑された不平士族の指導者。
「北海道開拓の父」としての札幌建設
島義勇は、幕末期に佐賀藩主・鍋島直正の側近として活躍し、蝦夷地(現在の北海道)の北方調査にも携わった実績を持つ。明治維新後に新政府のもとで開拓使が設置されると、島は開拓判官に任命されて北海道へと渡った。当時、まだ原始林の広がっていた石狩平野に到着した島は、札幌を北海道開拓の本府(中心地)と定め、京都を模した格子状の街路からなる壮大な都市計画を構想・着手した。この功績から、島は現在でも「北海道開拓の父」として広く顕彰されている。しかし、過酷な自然環境下での強行軍による過大な出費が開拓長官らとの対立を招き、わずか数ヶ月で判官を罷免された。
佐賀の乱への参画と最期
北海道を去った島は、のちに秋田県権令(知事)などを歴任したものの、急速に進む明治政府の近代化政策に対して懐疑的であった。1873(明治6)年の明治六年政変により、同郷の参議・江藤新平が下野して佐賀へ帰郷すると、島もこれに呼応して帰郷。島は佐賀藩の不平士族らが結成した「憂国党」の首領となり、征韓論を唱える江藤の「征韓党」と共に挙兵に及んだ(1874年の佐賀の乱)。しかし、大久保利通が率いる圧倒的な兵力と近代兵器を備えた政府軍の前に敗北。島は鹿児島や高知へ逃れて支援を求めたが捕らえられ、江藤とともに斬首、さらには晒し首(梟首)という極刑に処された。