市村座 (いちむらざ)
【概説】
江戸時代に幕府から興行を公認された歌舞伎劇場である「江戸三座」の一つ。寛永期に創設された村山座を起源とし、天保の改革による移転などを経て、江戸から大正期に至る日本の演劇文化を牽引した名門劇場である。
村山座から市村座へ:江戸三座としての確立
江戸の歌舞伎は、寛永期(1624〜1644年)に幕府から公認されたいくつかの芝居小屋(官許の芝居小屋)から発展した。市村座の起源は、1634年(寛永11年)に村山又兵衛が日本橋葺屋町(現在の東京都中央区日本橋人形町付近)に創設した村山座である。その後、経営が市村(後の市村羽左衛門)へと引き継がれ、1652年(承応元年)頃に市村座と改称された。
江戸時代を通じて、幕府から公認され続けた歌舞伎劇場は、市村座、中村座(旧・猿若座)、森田座(後の守田座)の三つに限定され、これらは江戸三座(または大芝居)と総称された。市村座は、江戸町人のエネルギーを反映した「荒事」や新歌舞伎の狂言を積極的に取り入れ、江戸を代表する娯楽の殿堂として確固たる地位を築き上げた。
天保の改革と「猿若町」への移転
江戸三座は長らく日本橋や京橋の周辺で興行を行っていたが、19世紀半ばに大きな転機を迎える。天保年間、老中・水野忠邦が主導した幕政改革である天保の改革において、風紀の取り締まりや奢侈(贅沢)の禁止が徹底され、歌舞伎をはじめとする大衆芸能もその厳しい弾圧の対象となった。
1841年(天保12年)、中村座からの失火を契機に、幕府は江戸三座に対して浅草の聖天町(後に初代猿若勘三郎にちなみ「猿若町」と改称)への強制移転を命じた。この移転は、江戸の中心部から芝居小屋を隔離・隔離することを目的に行われたものであった。しかし、結果として猿若町は芝居小屋や芝居茶屋、役者の住居が集中的に存在する「芝居町」として一大繁華街化し、江戸後期の町人文化の新たな発信地として、かえって大いに繁栄することとなった。
近代化の荒波と「大正の黄金期」、そして終焉
明治維新後、近代化が進む中で市村座は大きな変革を迫られた。新富座や歌舞伎座などが台頭し、演劇の近代化(演劇改良運動)が進む中、市村座は伝統的な芝居の魅力を残しつつも新たな展開を模索した。その結実が、明治末期から大正時代にかけて訪れた「大正の黄金期」である。
大正期の市村座には、後に昭和の歌舞伎界を背負って立つこととなる六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が出演し、「菊吉時代」と呼ばれる伝説的な人気を誇った。彼らの若々しく写実的な演技は、当時の青年知識人や学生たちを熱狂させ、「大正の市村座」の名は演劇史に深く刻まれることとなった。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災による被災や、その後の興行界の再編を経て、1932年(昭和7年)に火災により焼失。その後再建されることはなく、300年近くにわたる輝かしい歴史に幕を閉じた。