森田座 (もりたざ)
【概説】
江戸時代に幕府から公認された歌舞伎劇場である「江戸三座」の一つ。万治3年(1660年)に森田(のちに守田)太郎兵衛が木挽町に創設した芝居小屋。度重なる火災や経営難により休座を余儀なくされながらも、控櫓(代わりの劇場)の支援を得て幕末まで興行の血脈を保ち続けた。
江戸三座の確立と森田座の苦境
江戸時代、庶民の娯楽として爆発的な人気を博した歌舞伎は、風紀の乱れを懸念する江戸幕府によって厳しい統制下に置かれた。幕府は興行を許可する劇場を限定し、最終的に中村座、市村座、そして森田座の三つの芝居小屋のみに常設興行権(公認の櫓を立てる権利)を認めた。これが江戸三座(官許三座)である。
森田座は万治3年(1660年)、森田太郎兵衛によって木挽町(現在の東京都中央区銀座周辺)に創設された。しかし、先行する中村座や市村座に比べて経営基盤が脆弱であり、さらに立地が江戸の中心部からやや外れていたことも影響し、初期から慢性的な不振に苦しむこととなった。
「控櫓」制度と生存戦略
森田座の歴史を語る上で欠かせないのが、控櫓(ひかえやぐら)という制度である。これは本櫓(森田座)が借金の累積や火災などの災厄によって興行不能(休座)に陥った際、一時的にその興行権を代行する仮の劇場のシステムであった。森田座に対する控櫓は河原崎座が務めた。
森田座は経営難に陥るたびに休座し、河原崎座に名義を貸して興行を行わせることで、江戸三座としての「公認の特権(興行株)」を維持し続けた。江戸中期から後期にかけて、森田座が実際に本櫓として興行した期間よりも、河原崎座が控櫓として興行した期間の方が長いとされるほど、その経営は綱渡りの状態であった。しかし、この柔軟な代行システムこそが、森田座の興行権を幕末、さらには近代へと存続させる決定的な要因となった。
天保の改革と猿若町への移転、そして近代への飛躍
天保12年(1841年)から始まる天保の改革において、老中・水野忠邦は奢侈(贅沢)の取り締まりと風紀粛正を断行した。この際、江戸三座はそれまでの中央部(日本橋や木挽町)から、浅草の北はずれにある猿若町(現・台東区浅草)へと強制的に移転させられた。
この移転は劇団や芝居茶屋にとっては大きな痛手であったが、結果として芝居関係者が一箇所に集約された「演劇の街」が形成され、新たな興行の黄金期を迎える契機ともなった。幕末期には、11代守田勘弥(森田から改姓)が優れた手腕を発揮し、名優たちを擁して森田座の再興に成功する。この守田座(明治に改称)は、明治維新後に「新富座」へと発展し、明治の演劇改良運動を牽引する中心地として日本の近代演劇史に不滅の足跡を残すこととなった。