中村座
【概説】
江戸幕府の公認を得た「江戸三座」の一つであり、江戸で最も古い歴史を持つ歌舞伎劇場。寛永元(1624)年に猿若(中村)勘三郎によって創設され、江戸歌舞伎の象徴として独自の庶民文化を牽引した。
江戸歌舞伎の源流と「猿若座」の創始
寛永元(1624)年、山城国出身の芸能者であった猿若(初代中村)勘三郎が、幕府から許可を得て江戸の中橋(現在の日本橋と京橋の中間付近)に芝居小屋を建て、興行を行ったのが始まりである。当初は「猿若座」と称していた。これが江戸における最初の公認歌舞伎劇場であり、後に日本橋堺町へと移転した際、座名を「中村座」と改めた。劇場の正面に掲げられた「櫓(やぐら)」は幕府公認の証であり、江戸の町に歌舞伎が定着する大きな契機となった。
「江戸三座」の確立と都市文化への影響
江戸の歌舞伎劇場は、度重なる統制や火災を経て、最終的に中村座・市村座・森田座(守田座)の3つに公認権が絞られ、これらは江戸三座と呼ばれた。なかでも中村座は「座頭(ざがしら)」として常に筆頭の地位にあり、初代市川團十郎が創始した豪快な「荒事(あらごと)」に代表される江戸独自の歌舞伎狂言を数多く生み出した。芝居小屋は単なる劇場にとどまらず、芝居茶屋や周囲の商店を巻き込み、江戸庶民の最新の流行やファッションを発信する巨大な情報発信地としての役割も担っていた。
天保の改革と「猿若町」への強制移転
天保12(1841)年、中村座は火災によって全焼した。ちょうどこの時期、幕府では老中・水野忠邦による天保の改革が進められており、奢侈(しゃし)の禁止や風紀取り締まりの一環として、歌舞伎に対する厳しい弾圧が行われた。これにより、中村座をはじめとする江戸三座は、従来の日本橋付近から、当時の都市郊外であった浅草の「猿若町」へと強制的に移転させられた。しかし、この移転は結果として浅草周辺に巨大な一大娯楽街を形成することにつながり、歌舞伎は明治時代に至るまでその命脈を保ち、東京の近代演劇へと受け継がれていくこととなった。