日朝貿易

室町時代、日本から銅や硫黄などを輸出し、朝鮮から木綿や経典などを輸入した貿易を何というか?
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★★★

【参考リンク】
貿易(Wikipedia)

日朝貿易 (にっちょうぼうえき)

14世紀末〜16世紀末

【概説】
室町幕府や対馬の宗氏などを通じて、日本と李氏朝鮮の間で行われた貿易。前期倭寇の禁圧を契機として国交が開かれ、対馬の宗氏が実質的な窓口として特権的な地位を築いた。日本からは銅や硫黄が輸出された一方、朝鮮からは大量の木綿が輸入され、日本の衣生活に劇的な変化をもたらした。

倭寇の鎮圧と国交の樹立

14世紀後半から15世紀にかけて、東アジアの海域では日本の沿岸住民などを主体とする海賊集団、いわゆる前期倭寇が猛威を振るい、高麗や中国の沿岸部をたびたび襲撃していた。1392年に高麗を倒して建国された李氏朝鮮は、室町幕府の第3代将軍・足利義満に対して倭寇の禁圧を強く要請した。義満はこれに応じる形で倭寇の取り締まりを行い、これを契機として日朝間の正式な国交が樹立され、両国間での貿易が開始されることとなった。

通信符体制と対馬・宗氏の台頭

日明貿易が「勘合(かんごう)」を用いた朝貢形式であったのに対し、日朝貿易は対等な関係である「交隣(こうりん)」体制を基本とした。偽使や倭寇と正規の使節を区別するため、幕府や有力守護大名の使節には通信符(つうしんふ)と呼ばれる割符が用いられた。しかし、地理的に朝鮮に最も近く、かつては倭寇の拠点ともなっていた対馬の宗氏(そうし)が、日朝間の交渉において次第に独占的な権限を握るようになっていった。

朝鮮は、宗氏に対して日本からの渡航者を統制する権限を与え、宗氏が発行する渡航許可証である文引(ぶんいん)の持参を義務付けた。また、通交の許可証として朝鮮国王から銅製の印である図書(としょ)を与えられた者(受図書人)のみが貿易を許される制度を整えた。朝鮮側は交易の場として半島南部に三浦(さんぽ)(乃而浦・釜山浦・塩浦)を開港し、そこに倭館(わかん)を設けて日本人の居住や貿易を認めた。

木綿の輸入と日朝貿易の経済的意義

日朝貿易における最大の目玉は、朝鮮からの木綿(綿布)の輸入であった。当時の日本ではまだ木綿の栽培が本格化しておらず、保温性や吸湿性に優れた木綿は極めて画期的な繊維であった。大量に輸入された木綿は、麻や絹中心だった日本の民衆の衣生活に革命をもたらし、後の戦国時代においては軍需品(旗指物や火縄など)としても需要が急増した。このほか、朝鮮からは大蔵経などの仏教経典や高麗人参、陶磁器などがもたらされた。

一方、日本からの主な輸出品は、国内で豊富に産出される硫黄、刀剣・蒔絵などの工芸品であった。また、琉球王国などを経由してもたらされた蘇木(そぼく)や香木といった東南アジアの特産品も、日本側から朝鮮へと転売(中継貿易)され、大きな利益を生み出していた。

三浦の乱と貿易の衰退

15世紀後半以降、三浦に定住する日本人の数が増加し、密貿易などの違法行為が頻発するようになった。これに対し、朝鮮側は居留民への統制や関税の徴収を厳しくしたが、これに反発した三浦の日本人は1510年に大規模な暴動を引き起こした。これを三浦の乱(さんぽのらん)と呼ぶ。

暴動自体は朝鮮軍によって鎮圧されたが、これを機に日朝間の通交は一時断絶した。その後、1512年の壬申約条(じんしんやくじょう)によって貿易は再開されたものの、開港場は乃而浦のみ(のちに釜山浦に移動)に限定され、渡航船の数も大幅に制限されるなど、日朝貿易は衰退の道を辿った。そして16世紀末、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が引き起こされたことで両国の国交は完全に断絶し、室町時代を通じた日朝貿易はその歴史に幕を下ろすこととなった(国交回復と貿易の再開は、江戸時代初期の己酉約条締結を待つこととなる)。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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