朝鮮(李氏朝鮮)

1392年に建国され、対馬の宗氏などを介して日本と活発な交易を行った朝鮮半島の王朝は何か?
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朝鮮(李氏朝鮮) (ちょうせん(りしちょうせん)

1392年 – 1910年

【概説】
1392年に李成桂が高麗を倒して建国し、1910年の韓国併合まで朝鮮半島を支配した王朝。室町時代の日本との間で通信符を用いた日朝貿易を行い、木綿や大蔵経などを大量に輸出した。倭寇の取り締まりを契機に室町幕府と国交を結び、日本の中世・近世社会や文化に多大な影響を与えた。

李成桂による建国と倭寇問題

14世紀後半の朝鮮半島は、元寇後の混乱や紅巾の乱、さらには対馬や松浦党を拠点とする日本の前期倭寇による激しい略奪に苦しめられていた。こうした危機的状況の中、倭寇討伐で武功を挙げた新興武将の李成桂(太祖)が台頭した。1392年、李成桂は王位を奪って高麗を滅ぼし、新王朝を開いた。翌年、明から「朝鮮」の国号を認められ、以後この王朝は李氏朝鮮と呼ばれる。

朝鮮は、明に対しては臣従する「事大」の礼をとりつつ、周辺諸国とは対等に交わる「交隣」政策を外交の基本とした。建国当初の最大の対外課題は沿岸部を荒らす倭寇の鎮圧であり、朝鮮政府は日本側に対して強力な取り締まりを幾度も要求した。

室町幕府との国交樹立と日朝貿易

日本の室町幕府第3代将軍・足利義満は、南北朝合一を果たして国内を平定した後、朝鮮側の求めに応じて倭寇を厳しく弾圧した。これを機に、1404年に両国間で正式な国交が樹立された。幕府と朝鮮の間で行われた貿易は、偽使(倭寇が使者を詐称すること)を防ぐため、通信符(図書)と呼ばれる割符や銅印を用いる統制貿易であった。

朝鮮側は幕府だけでなく、大内氏や宗氏などの有力守護大名、さらには地方豪族や商人とも広く通交を持った。とくに対馬の宗氏は、朝鮮から貿易の特権を与えられる代わりに倭寇の統制を請け負うという特殊な関係を築いた。朝鮮は対馬の対岸にある乃而浦(富山浦)、釜山浦、塩浦の三つの港(三浦)を開港し、そこに倭館と呼ばれる日本人の居留地を設けて交易を行った。

木綿の伝来と日本社会への影響

日朝貿易において、日本からは主に銅、硫黄、刀剣などのほか、琉球や東南アジアから入手した蘇木(染料)や香木が輸出された。一方、朝鮮からは木綿(綿布)、大蔵経(仏典)、陶磁器、高麗人参などがもたらされた。

中でも特筆すべきは木綿の大量輸入である。当時、麻や絹が主流だった日本において、保温性や吸湿性、耐久性に優れた木綿は瞬く間に普及し、戦国期には足軽の陣羽織や火縄銃の火縄、帆布などに欠かせない軍需物資ともなった。後に日本国内でも綿花栽培が定着するが、その端緒はこの時期の朝鮮からの木綿輸入にある。また、高度な印刷技術によって作られた朝鮮版の仏教経典や儒学(朱子学)の書物も日本にもたらされ、五山僧をはじめとする日本の知識層に多大な文化的影響を与えた。

貿易の衰退から近世の新たな関係へ

15世紀後半から16世紀にかけて、三浦に居住する日本人が急増し、朝鮮側の厳格な統制措置に対して不満を募らせるようになった。1510年、日本人居留民が大規模な暴動を起こす三浦の乱が勃発する。朝鮮はこれを武力鎮圧し、一時的に日本との国交を断絶した。その後、宗氏の尽力によって貿易は再開されたものの、厳しい制限が加えられ、日朝貿易は次第に衰退の途をたどった。

16世紀末には、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により両国関係は決定的に悪化し、国土を蹂躙された朝鮮は甚大な被害を受けた。しかし江戸時代に入ると、徳川家康と対馬藩(宗氏)の熱心な仲介工作により、1609年の己酉約条によって再び国交が回復した。以後、朝鮮からは将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が派遣されるようになり、朝鮮は江戸幕府の鎖国(海禁)体制下において、正式な国交を結ぶ唯一の通信の国として重要な役割を担い続けた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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