江戸三座
【概説】
江戸幕府によって公式に歌舞伎の興行を許可されていた、中村座・市村座・森田座の3つの歌舞伎劇場の総称。幕府による公認の証である「櫓(やぐら)」を掲げることを許され、江戸歌舞伎の中心的役割を担った公認劇場群である。
公認劇場の成立と「控櫓」の制度
江戸時代初期、急速に庶民の娯楽として発展した歌舞伎は、風紀を乱すものとして幕府からしばしば弾圧や規制を受けた。幕府は歌舞伎を禁止するのではなく、特定の劇場にのみ興行権を与えることで管理・統制下に置く方針をとり、最終的に中村座、市村座、森田座(後の守田座)の3座のみに公式な興行許可(官許)を与えた。これが「江戸三座」の始まりである。
公認された劇場は、正面に「櫓」を上げることが許され、これが官許のシンボルとなった。しかし、各座の経営は度重なる火災や財政難によって常に不安定であった。そのため、本座が休業した際に一時的に興行権を代行できる「控櫓(ひかえやぐら)」という救済制度が設けられた。中村座に対しては「都万太夫座」、市村座に対しては「桐座」、森田座に対しては「河原崎座」などが控櫓として機能し、江戸における歌舞伎の興行体制は常に3つの系統が維持される仕組みになっていた。
天保の改革と「猿若町」への強制移転
江戸三座は当初、日本橋の堺町や葺屋町、あるいは木挽町といった江戸の中心部に位置し、町衆の娯楽の殿堂として大いに賑わいを見せていた。しかし、1841年(天保12年)に老中・水野忠邦が主導した天保の改革において、歌舞伎は「奢侈(贅沢)の最たるもの」として厳しい弾圧と取り締まりの対象となった。
この改革により、江戸三座はそれまでの都心部から、浅草の北外れにある猿若町(現在の東京都台東区浅草)へと強制的に移転させられた。これは町中から芝居小屋を隔離し、庶民の風紀を取り締まる目的であった。しかし、一箇所に劇場のほか役者の住居や芝居茶屋が集められたことで、猿若町は一大エンターテインメント空間(芝居町)として独自の発展を遂げることになり、結果として歌舞伎文化のさらなる成熟をもたらした。
明治維新と江戸三座の終焉
明治維新を迎えると、幕府の庇護と統制に依存していた江戸三座の体制は崩壊へと向かう。明治政府による近代化政策や、演劇を「高尚な芸術」へと高めようとする演劇改良運動の波の中で、劇場制度は大きく再編された。
1872年(明治5年)、守田座(森田座)がいち早く新富町へ移転して「新富座」と改称し、近代的な西洋風劇場へと脱皮を図った。その後、中村座や市村座も火災や経営難、さらに新興の帝国劇場や歌舞伎座などの台頭によって衰退し、大正から昭和初期にかけて次々とその歴史に幕を閉じた。江戸三座の崩壊は、近世的な「河原乞食」の芝居から、近代的な「演劇芸術」へと歌舞伎が変容していく過程の象徴でもあった。